人びとは、様態の変
をおそれ、おのおの、衣きぬ ずれの音も、忍ばせあって、病間を退がった。 一時、二位ノ尼は、はっとしたが、よいあんばいに、清盛は、そのまま静かな寝息になって行った。夜は、ふけ沈んでゆき、彼女も、その真っ白な頭巾姿ずきんすがた
を、良人のしとねの端にうつ伏ぶ
せて、いつか疲れ寝に、寝入っていた。 ・・・・ふわ、と体は雲の上に浮いていた。 いや、肉体の感じはない。ただ、自分というものはある。意識だけの、自分がある。 雲の世界は、渺びょう
として、雲ばかりだ。美しさ、いいようもない。 しかも、病苦、心のもだえ、何もなかった。これこそ、人間が生まれたままのものだと思う。 ── 蝶ちょう
のような童心が飛びまわる。 (あっ、いけない) もがき、もがき、不意に奈落ならく
の闇へでも堕お ちてゆく気がした。──
しかし、またいつか、あたりは明るい。 鉦鼓しょうこ
や、笛や鈴すず の音がする。 自分は舞い童子であった。祗園ぎおん
の祭りらしい。舞って舞いぬく自分を、美しい母が、見とれている。 舞い終わると、母は自分の汗をふいてくれた。そして、どこかへ、抱えて行く。── どこへ、どこへ、どこへ?
── おそろしく遠い。 今出川の貧しい荒れ屋敷に、スガ眼の人が、すわっていた。父だ。 母がいない。母は、どこへ。 小さな弟たちが、ピイピイ泣く。ひもじいのであろう。おろおろ思う。 爺じい
やの木工助もくのすけ 家貞いえさだ
が、一人を負って、どこかで、子守歌を歌っている。 ・・・・雲が流れ行く、雲があたりをつつむ。 するともう、身は、甲冑かっちゅう
をまとい、騎馬で雲の上を飛ばしていた。 下界は、ひっくり返るような騒ぎをしている。 人妻の袈裟けさ
御前ごぜん の首を抱いて逃げた遠藤武者盛遠を、自分も、追捕ついぶ
の一人として、追っかけているのだ。 きゃつは、学友、遊び友達。 見つけたら、助けてやろう。逃げ口を教えてやろう。そう、こっちは、思っているのに、盛遠は、考えちがいしている。──
清盛「めが、追いつめ、追いつめ、おれを追ってくる。そう、とってか、逃げまわる。 ちがう、ちがう。 どなってみるが、通じない。 いちめん火だ、黒けむりだ。矢うなりが、身をかすめる。加茂川が赤い。 合戦があるぞ。駆けつけなければならない。 気がもめる。が、そこへは遠い。 だのに、笑っているのはたれだ。──
見たようなお人、と思えば、それは、家を捨てて去った母ではないか。あの祗園女御ぎおんのにょご
というお人。 そして、あたりにも、たくさんな妓がいる。 どこぞと問えば、江口という。 無性むしょう
に、腹が立つ。 子も捨て、良人も捨てて、虚栄にあこがれて、出て行ったお人、ざまを見ろ、いまは老いかけて、遊女宿あそびやど
のあるじ。 母であっても、こんなお人、母ではない。飲んで、くだを巻いて、辱はずかし
めてくれよう。 ── 飲む、飲む、飲み明かす。そして、ぐでん、ぐでんび寝たおれて、母を蹴け
とばした。 母の姿は、ちぎれ雲のように、雲を離れて落ちて行く。 ── 見ていると、果てもなく、落ちて行くので、われを忘れて、 (母上っ・・・・) と、さけぶ。なお、声のかぎり、 (母上、母上、母上っ・・・・おっ母さん!) と、呼び続けた。 母の雲は、一直線に、さがってゆく。自分の体も流星が落ちて行くようだ。果てなく、果てなく、無限に落ちて行く。 あたりは、暗くなる。赤黒い火の坑あな
かとも思う。おお、炎々たる火。岩が燃える。石が黒煙を噴く。白い火。紫色の火、大小無数な焔ほのお
の舌・・・・。・・・・・・・・・・・。 |