〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Y 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (八) ──
さん がい の 巻

2013/09/28 (土) おう じょう さん がい (三)

人びとは、様態のへん をおそれ、おのおの、きぬ ずれの音も、忍ばせあって、病間を退がった。
一時、二位ノ尼は、はっとしたが、よいあんばいに、清盛は、そのまま静かな寝息になって行った。夜は、ふけ沈んでゆき、彼女も、その真っ白な頭巾姿ずきんすがた を、良人のしとねの端にうつ せて、いつか疲れ寝に、寝入っていた。
・・・・ふわ、と体は雲の上に浮いていた。
いや、肉体の感じはない。ただ、自分というものはある。意識だけの、自分がある。
雲の世界は、びょう として、雲ばかりだ。美しさ、いいようもない。
しかも、病苦、心のもだえ、何もなかった。これこそ、人間が生まれたままのものだと思う。
── ちょう のような童心が飛びまわる。
(あっ、いけない)
もがき、もがき、不意に奈落ならく の闇へでも ちてゆく気がした。── しかし、またいつか、あたりは明るい。
鉦鼓しょうこ や、笛やすず の音がする。
自分は舞い童子であった。祗園ぎおん の祭りらしい。舞って舞いぬく自分を、美しい母が、見とれている。
舞い終わると、母は自分の汗をふいてくれた。そして、どこかへ、抱えて行く。── どこへ、どこへ、どこへ? ── おそろしく遠い。
今出川の貧しい荒れ屋敷に、スガ眼の人が、すわっていた。父だ。
母がいない。母は、どこへ。
小さな弟たちが、ピイピイ泣く。ひもじいのであろう。おろおろ思う。
じい やの木工助もくのすけ 家貞いえさだ が、一人を負って、どこかで、子守歌を歌っている。
・・・・雲が流れ行く、雲があたりをつつむ。
するともう、身は、甲冑かっちゅう をまとい、騎馬で雲の上を飛ばしていた。
下界は、ひっくり返るような騒ぎをしている。
人妻の袈裟けさ 御前ごぜん の首を抱いて逃げた遠藤武者盛遠を、自分も、追捕ついぶ の一人として、追っかけているのだ。
きゃつは、学友、遊び友達。
見つけたら、助けてやろう。逃げ口を教えてやろう。そう、こっちは、思っているのに、盛遠は、考えちがいしている。── 清盛「めが、追いつめ、追いつめ、おれを追ってくる。そう、とってか、逃げまわる。
ちがう、ちがう。
どなってみるが、通じない。
いちめん火だ、黒けむりだ。矢うなりが、身をかすめる。加茂川が赤い。
合戦があるぞ。駆けつけなければならない。
気がもめる。が、そこへは遠い。
だのに、笑っているのはたれだ。── 見たようなお人、と思えば、それは、家を捨てて去った母ではないか。あの祗園女御ぎおんのにょご というお人。
そして、あたりにも、たくさんな妓がいる。
どこぞと問えば、江口という。
無性むしょう に、腹が立つ。
子も捨て、良人も捨てて、虚栄にあこがれて、出て行ったお人、ざまを見ろ、いまは老いかけて、遊女宿あそびやど のあるじ。
母であっても、こんなお人、母ではない。飲んで、くだを巻いて、はずかし めてくれよう。
── 飲む、飲む、飲み明かす。そして、ぐでん、ぐでんび寝たおれて、母を とばした。
母の姿は、ちぎれ雲のように、雲を離れて落ちて行く。
── 見ていると、果てもなく、落ちて行くので、われを忘れて、
(母上っ・・・・)
と、さけぶ。なお、声のかぎり、
(母上、母上、母上っ・・・・おっ母さん!)
と、呼び続けた。
母の雲は、一直線に、さがってゆく。自分の体も流星が落ちて行くようだ。果てなく、果てなく、無限に落ちて行く。
あたりは、暗くなる。赤黒い火のあな かとも思う。おお、炎々たる火。岩が燃える。石が黒煙を噴く。白い火。紫色の火、大小無数なほのお の舌・・・・。・・・・・・・・・・・。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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