〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Y 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (八) ──
さん がい の 巻

2013/09/26 (木) おう じょう さん がい (一)

発病以来、病人のこんな血色は初めて見られたといってよい。それほど、今宵は気分もよいのであろう。清盛は、わずかに、枕の頭をもたげて、
「二位どの、そこのしとみ を揚げさせてくれぬか。空など、寝ながら見ていたい」
と、弱々しくはあるが、はっきりした声で言った。
夕べから落ち着きを見、今朝も無事、そしてひる には白粥しらがゆ さえ召されたものの、さて、夕風の吹くころはどうかと、二位ノ尼はなお気をゆるめてはいなかった。が、宵となっても、この容子なので、今は彼女も 「このぶんなら・・・・」 と、眉も明るく、かしずいた。
蔀が揚げられた。格子こうし の目から夜空が見える。風もなく、星はいとど遠くに思われ、あい いたような夜の空である。
── 清盛は上眼うわめ づかいに、蔀の方を、飽かず枕から見上げるのだった。大熱がさが って、われに返った面もちかとも思えるし、ふと、からだを留守にして魂がそこから春の夜へ遊びに抜け出している空虚うつろ な人のようにも見える。
「やがて温かな一雨ごとには、お坪の桜もほころびましょう。・・・・おん床あげのころにはもう」
妻は、良人の顔へ、顔を寄せてささやいた。
疲れたと見えて、清盛はまぶた をふさいだ。そしてまた、にぶい眸を、妻の顔へ向けた。
向けただけで、
「・・・・・・」 ただ微笑して見せる。
微笑と見たのは二位ノ尼の欲目かも知れない。じつは笑いともいえない笑いに似た影だった。しかし彼女は 「もう、だいじょうぶ」 という気持をもった。
「お寒くはございませぬか」
「寒うはない」 清盛は、つぶやいて 「・・・・そなたこそ、眠たかろうに」
妻のひとつの手を、自分の胸の上において、彼は、いつまでも離そうとしない。
触感を通して、いっぱいないたわ りと、感謝と、そして何か心の びたいものを、訴えているようでもあった。
それはまた、妻としての、二位ノ尼の心とも、一つであった。大勢の子を産んだので、つい、早くから子どもばかり気をひかれて、良い母とは慕われたが、良人にとっては、良い妻であったかどうか。
良人にも、精いっぱい、尽くしたとは思っていたが、良人の放埓性ほうらつせい や事業欲を、よいことにして、もう四十代の頃から、放ったらかしのあきらめをもっていたのは事実である。
住居も別、朝夕も別、生活すべてが、形式的なわく にある権門の家庭では、妻の意志も庶民の夫婦のようなわけにはゆかない。しかし、もし自分に、不断な愛情があったなら、もっと、何かこの良人にして上げられれることは、かずかず、あったに違いない。なぜ、それをし残したのだろう。この」大病を見てから、なぜ、あわてておそ い愛情を急にかきたててうろたえるのか、泣くのであるかと、くや まれる。
(いや、いや、おそくはない。これからは、おそばにもい、何事のお悩みも分けおうて、残り少ない夫婦の日々を楽しみ合おう)
手の触覚と体温を通して、ふたりは想いを語り合っている。この場合、言葉は要らないものだった。清盛のまな じりに、涙のすじが見え、二位ノ尼も、そっと、白絹の袖ぐちで、眉をかくした。
この夜はまた、宗盛、経盛、教盛のりもり 、時忠、頼盛、忠度ただのり なども、みな枕べに呼ばれた。
わずかの間ながら、清盛は、機嫌の良い顔を見せ、
「日ごろは、つい、おことらの、不足ばかり眼についたが、おのれが、病みたおれてみると、みな頼もしい者ぞや。このほかにも、重衡しげひら はおるし、維盛これもり もおる。おい ども、孫どもも、成人した。・・・・仲よくせい。おたがい、ゆるし合うて、仲よく暮してゆけよ」
と、さとした。
「そしての・・・・まだ、おいとけなき、みかどを護り参らせ、御不運なおん国母をも、くれぐれ、頼むぞよ。みなして、建礼門院のお力になって上げることだ。それが、平家のつとめ、また、平家の栄をたも ってゆくみち でもあろう」
しばらく、息を休めてから、また、
「この入道が亡き後は、それ以上、法外なことは望むな。打ち続く凶年に、民は飢え、兵の郷土は疲れている。美濃の乱に出向いた重衡、維盛なども、あれより先、東国へまでは、馬を進ませまいぞ。乱の鎮まり次第、呼び返すがいい。紀伊、西国の乱れには、それぞれ、人をやって、よくいいなだめよ。・・・・いずれも、平家恩顧の者、話せば、分からぬこともなかろう。・・・・ただ、行く末、おそ るべきは、鎌倉の・・・・」
鎌倉の ── と言いかけたとき、急に、脈搏みゃくはく の数が増したに違いない。眼窩がんか と、ソゲ落ちた頬のくぼに、苦悩と悔恨かいこん とが、青黒く重なった。そして、かわ いた歯とヒビのはいった唇の間から、ほっと、吐息が聞こえた。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next