閏
二月二日の宵だった。 閏月うるうづき
である。太陰暦たいいんれき
(一年を三百六十日とする) による余剰日が積もって、ことしは、一年が十三ヶ月あることになる。 で、先月も二月。月をこえても、、あた、二月がくり返された。 その夕べ、西八条の門へ、ひとりの怪僧が訪おとず
れて、阻める武者たちも眼中になく、 「入道の、おん病篤あつ
しと聞いて参った。かく言う自分は、遠き昔、平太清盛とは勧学院の学窓に机を並べていた誼よし
みのある者。── いまは高雄に神護寺の建立こんりゅう
を営み、ひたすら世の大浄化だいじょうげ
を祈る文覚もんがく と申す沙門しゃもん
。入道のおん見舞いに罷まか り出でぬと、伝えられよ」 傲慢ごうまん
な物腰、物の言い方、しかも大殿の奥へも聞こえよとばかり、破れ鐘声で言うのである。 もとより、通すはずもない。 「いや、お取次ぎはしておくが、かかるおりなれば」 と、淡路守清房の部下が出て、追い返しにかかると、文覚は、 「しておいてもらう取次ぎなどたれが頼もう。いま、申し告げい。そちの上将はあたれか。上将に、物申さん」 と、いっかな、動きもしない。 淡路守が、なだめに出ても、 「平太清盛とは、むかしは、ひとつ瓶かめ
の酒も汲く んだ仲ぞ。六条の遊女宿あそびやど
の軒端も、腕をくんで、さまよい歩いた旧ふる
い友ぞ。なんじらの知ったことか。── いま旧友の重態と聞き、むかしを想い、生涯の情じょう
を叙の べんと、初めて、この門へ参ったるに、なんで、取次がぬ。もし、文覚来れりと聞くならば、清盛入道も、いなみはすまい。あわれ、これが彼と俺との、一生の別れでもあろうずるに」 と、なお言いつのる。 かつて、この男は、法住院寺殿ほうじゅうじでん
でも、法皇御遊楽の御庭みにわ
に闖入ちんにゅう して、武者や衛士えじ
をあいてに、大暴れを演じたとも聞いている。伊豆に流されて帰った後も、粗暴の風は、あいかわらずで、怪僧文覚の名は、洛中に高い。いわば、始末の悪い相手だ。このさいではあり、武者たちも、持て余し気味に見えた。 「よし、よし、通しもせず、取次ぎもせぬとあらば、声の届く所から、病殿びょうでん
に向かって、文覚が、別れの物申さん」 ずかずかと、彼は中門廊のさかいまで進んで来て、そこの墻かき
ごしに、 「── やよ、入道、いや平太清盛。ついに、俺とお主とは、塩小路の辻つじ
を境に、爾来じらい 四十年、まったく、別な道を歩いたぞ。どうだ、いま死なんとして、悔いはないか」 武者たちは、気をのまれ、がやがや、遠巻きを作っているだけだった。
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