「──
わたくしの診 奉たてまつ
りますところ、禅門のおん病は、瘧ぎゃく
と申す奇病ならんと存じます。大熱を発する前に、はなはだしいふるえを催もよお
しますのは、あきらかに、瘧慄ぎゃくりつ
の御症状で、特に今夕のごとく、おしずまりの後、解熱げねつ
の兆ちょう は見えましても、やがて、一定の時をへだてて、またおなじ発作をおこされましょう。瘧のあきらかないわれでございまする。・・・・。 かなしいかな、今のところ、唐土にも、わが朝ちょう
にも、瘧の治法は、ございません。蓬よもぎ
、みみず、などの解熱げねつ の薬法を用いたり、雪氷で冷やしたりなどいたしますが、正直に申して、それで癒い
えるものではないのです。つまり、奇病とでも、申しましょうか。・・・・。 凡下のあいだでは、瘧とも言わず、これを、わらわやみとか、おこりやみとか言い慣わし、ただ祈祷きとう
、禁厭まじない を事としておりますものの、二日おき、三日おきには、大熱に慄ふる
えを伴い、七転八倒しちてんばっとう
の身もだえを繰り返しまする。── おそれながら、禅門相国の御容態と、たがうところもございません。・・・・。 貴人にして、瘧ぎゃく
で逝ゆ かれたお人には、近くには藤原ふじわらの
成通卿なりみちきょう があります。大和の僧なにがしも、瘧と聞き及びましたが、わたくしが診み
たわけではございません。けれど、わたくしが前に住んでいた牛飼町にも、ただ今いる柳ノ水の貧しい部落にも、瘧の病人は、まれではございませんでした。今日まで、自分の手がけた病者は数知れません。しかし、お恥ずかしいことには、みな、あえなく、瘧で死んでおります。・・・・。 医師として、かなしく、また、残念でなりませんが、学問も自分の才の及ばぬところで、なんともいたし方がございません。ただ漸々ぜんぜん
のことで、このごろ、自分に会得されたことは、これは、怖おそ
ろしい毒を持つ斑蚊まだらか がうつすものだということと、そして、蚊に刺された毒によって、たちまち、熱を発する人と、数年間も、身に毒を受けながら何事もなく、時ならぬ季節に、とつぜん、高熱と瘧慄ぎゃくりつ
を発しる人との、ふたつの場合があるということだけでございまする。・・・・。 察するに、禅門相国におかせられては、後の場合に、あてはまるもので、蚊毒かどく
は、脾臓ひぞう のふかくに多年ひそみ、今日の世態、内外の御憂患に、み心をいためられ、そのためのお疲れに乗じて、一時に、表へ現れ出たものと申すしかございません。・・・・。 以上、わたくしの愚見は、申しつくしました。げにも、われながら冷やかな言葉ばかりでございました。けれど、これがいつわりなき当代の医学の水準なのです。人間のたどり歩いている智識の途中なのでございましょう。麻鳥もそれまでのことしか何もわきまえておりません。お恥ずかしい次第です。さりとて、加持かじ
祈祷きとう は、わたくしの知るところではございませぬ。──
要するに、わたくしから申し上げられるさいごの言葉は、いたましいかな、禅門相国の君にも、はや、天寿のつくるときに参りました。そういうことでしかございません」 麻鳥の言葉には、いささかの感情も交えていない。 自然な水のせせらぎに似ている。低く、冷たく、乱れもない。 近親たちや、典医らも、また、水を打たれたように、一語もさしはさまず、聞いていた。 たれからとももなく、深い吐息がもれた。しかし、人間である。すぐ次には、否定したい気持ちがうずいた。 典医の定成が、まず、いい出した。 「いや、瘧ぎゃく
とのお説だが、われらとて、それを考えてみないことではない。しかし、一概に、そうとも申せぬ御容態がいろいろみえる。かつは、われらの身命を賭と
しても、御平癒にみちびかねばならぬおん方。御辺のごとく、あっさり、御死期を予想するようなことは、われらには出来ぬ」 頼基も、続いて駁ばく
した。 「頭風ずふう 、傷寒しょうかん
の諸症とて、一様ではない。大熱を伴うとか、ふるえを発作することなどは、他の病にも、ままあることじゃ。麻鳥どののおみたては、ちと、かるがるしい。・・・・門脇殿にも、参議殿にも、かまえて、御落胆な遊ばされますな。なんの、町医の一意見、さまで、にわかに御心痛あらせられずとも」 彼らとしては、励ますつもりであろう。しかし、眼まな
ざしはあきらかに 「よけいな、雑言を」 と言わぬばかりに、麻鳥を見た。 麻鳥は、無用と見て、もう多くを言わなかった。 「── お暇を」 と、さそおく、帰宅を願った。けれど、経盛は、むしろ彼の正直を愛め
でた。その説を、信頼した。 「いや、医師同士の意見たがいは、あって不思議でない。よくある例じゃ。麻鳥も、他の室へさがって、ともに、夜詰してくれい。いつ、御病間ににわかな変があろうも知れぬゆえ」 医の義務である。請こ
われれば否いな むわけにもゆかない。麻鳥は、べつな小部屋をあてがわれた。そして、召しのない間は、そこで自由に休んでよいと、ねぎらわれた。 「はて、こんなことなら、何か、書物でも持って来るのであったに」 と、彼の悔いは、そこでのなすなき時間を、つまらなく空費していることだった。といって、いつ召されるかわからないので、寝るにも、心も帯も解かれない。 かくて、翌一日は、何事の変もなかった。 大殿おおどの
に宿直とのい していた近親の面々も、医療のたれかれも、 「このぶんでは」 と、どこか、明るい眉をたたえ、もう麻鳥のいることなどは、たれも忘れ顔だった。
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