〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Y 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (八) ──
さん がい の 巻

2013/09/24 (火) 麻 鳥 拝 診 (三)

麻鳥もまた、ぺたと、すわったきりである。ここへ入った時の病臭で、彼jは、この病人の直前の大熱と苦患とを、疑っていない。だが、 「お脈を」 とも申し出なかった。わずかに、そばの明りの位置をすこしすすめ、じいっと、入道の皮膚をながめ入った。
とばり のかたわらには、二位ノ尼殿と、右府宗盛卿がいた。その後方しりえ には、典薬頭てんやくのかみ 定成さだなり 、典医頼基、入道にゅうどう 知康ともやす などの医寮の人びとが、息をつめて、麻鳥の横顔を、凝視している。
「・・・・・」
二位殿の眸は、たよりなげに、やがて、麻鳥から、眼をそらした。侍医たちも、ようやく、彼を見るに、軽蔑けいべつ な眼つきを、露骨にしてきた。
洗いざらした葛布くずふ の狩衣に葛袴くずばかま 、何一つ飾っていないのは、いいとしても、なりは小さいし、容貌ようぼう も平々凡々である。知性の光とか、人品の高さなど、見つけようとしても見出せはしない。
(こんな者が、和気百川わけのももかわ の後継者とは?)
すでに、侍医の間で、打ち合わせた時から、片腹痛い、と言いたげな者もいたのである。果たして、禅門のおん枕べでは、脈法もとらず、眼瞼がんけん口腔こうこう を診るでもなく、ただ禅門や二位殿の威にあつ しられているのではないかと疑われる。
いくら、町で名声があっても、帰するところ、貧乏人だましの虚名を博して、おのれは名医ぞと、世間に見せかけている似而非え せ 大家たいか にちがいない。 「いらざる町医者を招いたものではある。施物せもつ を与えて、早々に退きとらせたがよかろう」 と、言わぬばかりな眼と眼である。
「麻鳥どの。なにか、御辺として、お看護みとり のうえの御意見でも」
ついに、ひとりが言い出した。
「されば、後ほど、申し上げまする」
「御拝診は」
「相すみましてございます」
「ほほう、もう、それでおよろしいのかな」
「はい。では、これにて」
一礼をほどこして、座をすべり、そのまま、侍医の間へ、退がって来た。
さすが、麻鳥も、控えにもどると、鼻腔びこう で息をしていた。顔は蒼白あおじろ えてみえる。
全能の精を、ある一点へ凝集したあちの異様なまでにたか まった自己の生理を、静かに平調へ返している姿であった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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