〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Y 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (八) ──
さん がい の 巻

2013/09/23 (月) 麻 鳥 拝 診 (二)

経盛の嫡男、皇后宮亮こうごうぐうのすけ 皇経正つねまさ は、馬を降りると、
「お迎え申し上げて参ったお医師なるぞ。武者ども、お医者の通り道をひらき給え」
と、西八条の内へどなった。
そして、経正が、かき分けて行く人影の中を、麻鳥は、おずおずと、あとに いて行った。
外門げもん 、二階門を通って、中門廊の東の口から、内へ上って行く。年少のころは、宮廷の楽寮がくりょう にいたこともある麻鳥なので、いかに西八条が広壮こうそう であろうと、建築の大には驚きもしなかったが、中門までの武者のかためと、内殿ないでん の到るところにも充ち満ちている平家人へいけびと のおびただしさには、何か、吐息が出た。
(これほどな人びとが、これほど心をいためても、一個の人間の死を、どうにもならぬ)
すぐそれを感じたからである。
もうたそがれに近い。奥へ進んで行くほど、廊、太柱ふとばしら 、坪のあたりも暗さを加え、不知火しらぬい のような明りの点々が、かなたこなたのひさし の内にながめられた。
「しばらく、ここにお控えを」
彼を待たせて、経正は、中殿のひと間へ入った。
ここまでは、急がせられたのに、ずいぶん長いこと、彼はそこに、ぽつねんとおかれた。
やがて、宵も けたころ、やっと、経正に代って、三名のやごとない容子の人たちが、彼に前にあらわてた。それが門脇殿かどわきどの やら右大臣殿やら、麻鳥には分からなかったし、さきも名乗りはしなかった。だだ、
「大儀であったの」
と、そのうちの一人が言い、
「もし、御辺の医法よろしきをえて、禅門快気のうえは、重き恩賞をとらせるであろう」
とまた、別な一人は、いいたした。
「はい。はい」
麻鳥は、ここへ来たことを、べつに悔いもしなかった。けれど、この にまで、恩賞の約束だの、権力などが、何かになるものと思っている人びとが、あわれであった。気の毒に見えた。
掛樋かけひゆか で、口をそそぎ、手をきよめ、麻鳥は、病間に伺候した。
けれどなお、入道の病室は遠く、侍医の間で、医寮の面々と、あらかじめの談合をとげた。そして、夜もふけ初むるころ、やっとのことで、入道の す病臭の濃い枕もとへ したのであった。
「・・・・?」
病入道は、平静だった。嘘のように、静かな呼吸をしている。が、見馴れぬ男を枕べに見、落ち窪んだ眼を、ぽかと開けている。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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