〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Y 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (八) ──
さん がい の 巻

2013/09/21 (土)  これ じん (四)

「言わしておけば、つべこべと、にく ていぐち も、よいかげんにせい。おのれの良人を恥かしめるのは、自分を恥ずかしめているものと、おなじだぞ」
「夫婦は、それほど一つものだということなんでしょう。それなら、なぜ、わたしにとっては旧主に当るお人、あなたにとっても、忘れ難い御縁もある源氏の御曹司おんぞうし を裏切って、縁も恩もない、平家の迎えなどを、おひきうけになるんです。私の良人が、ぼろをさげて、西八条の門を、おずおず通り、源氏のかたきの入道殿のお脈を伺うなんて、思うてみるだけでも、たまりません。よしてください、そんな卑屈は」
「卑屈」
「ええ、卑屈です。平家がこわ いから、いやいや、御承知なすったのでしょう」
「ああ、おまえは、女だ。つまらない女だな」
「どうせ、つまらない女ですよ。けれど、あなたみたいに、意地も引っ腰も失ってはいませんからね」
「なんとでもいえ、怒らない良人には」
「怒れないんでしょう。御自分の心にも恥かしくて」
「そうだ、わしは怒ることを知らない。だがねよもぎ 。・・・・まあ、落ちついて、怒らない良人の言い分も聞いてごらん。わしは医者だよ」
「ええ、貧乏の好きなお医者さんです。女房子よりも、貧乏の方が、なだ好きなくらい好きなんですから。── そのくせ、入道相国殿のお迎えには、意地もなく、出かけると言うんですもの。どこが性根だか、分かりゃしない」
「そうまくし立てられては、わしの言う言葉が出ないよ」
「仰っしゃいな、そのお口で」
「医者には、差別はない」
「なんのことです、それは」
「富者も貧者も、源氏も平家も、医者の眼からは、なべて一つの人間だ。みな平等な人間でしかないのだよ。さきの 太政入道だじょうにゅうどう 殿であろうと、そこらの、埴生はにゅう の小屋の人びとであろうと、わしは分けへだてを持っていない。まして、平家だの、源氏だのと、そんな区別をつけて、人に対した覚えもないし、今でも、そうだよ。だいいち、この小さな家のおたがい夫婦と子たちは、決して、源氏でもなければ平家でもないはずだ。ただ、こうやって、日々を仲よく楽しく暮したいと願っているだけの家族ではないか。── ね、よかろう、そういう気持で行くまでのことだから」
なだめるには、骨がおれた。
むかし、恋心をかな でていたころのよもぎ は、世の乙女おとめ なみに、可憐かれん でもあり、優しくもあったのだが。いつのまに、こういう古女房になったのやら、そばに暮してきながら、麻鳥あさとり にもわからない。
けれど、二十年近くも、一つに暮らし、言いたいことも言い合い、人間の美醜、長短、あらゆる悲喜をともにして来たことも、また、得難い終生の道づれと思われて、 「困った無智」 「口ばかりな女」 と、おりおり、舌打ちはしても、それさえ、いとおしくなるほど、良人の修養みたいなものに、いつか、麻鳥も馴れてきた。
やっと、蓬の機嫌も直ったので、衣服を着替え、畑に遊んでいる子たちも、呼びかけながら、麻鳥はやがて、そこの門垣かどがき を、出て行った。
垣の外には、さっきから、むらがっていた近所の女子どもが、彼の出発を、案じるような眼で、見守っていた。
「そう、そう・・・・」 ふと、思い出したように、麻鳥は、また家のかど まで引っ返して来て、
「忘れていたが、高雄の文覚もんがく どのが、こよい訪うて来る約束だったな。あの上人は、そなたに負けぬ源氏びいき、ゆめ、わしが西八条へ伺ったことなどは、いわぬがよい。ただ、さいげのう、両三日は留守と、おことわりしておいてくれよ」
と、蓬/rb>よもぎ へ言い残した。
柳ノ水から、西の洞院とういん の角まで来かかると、たいらの 経正つねまさ は、わずかな従者とともに、なお路傍の木蔭に彼を待っていた。そして、麻鳥の姿を見ると、近づいて来て、たって駒をすすめ、経正もまた駒を並べて、西八条の門へいそいだ。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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