〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Y 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (八) ──
さん がい の 巻

2013/09/18 (水)  これ じん (一)

柳ノ水のそばの老柳おいやなぎ も、うっすらと、浅緑さみどり の芽を吹き初めていた。
阿部あべの 麻鳥あさとり の小屋は変らない。変哲へんてつ もない人生の標本みたいなものだ。ここに定住して、いつかもう二十年近くになる。
家の裏には、小さな薬草園だの、野菜畑などを耕し、萱屋根かややねこけかき のつる草も、風雅めいて、竹の小窓からは、医書を積んだ書斎ものぞかれ、朝夕の掃除に、土味つちあじ も出て、貧しさは貧しさのまま、おもむき があった。── 古語の “無事ぶじ これ 貴人きじん ” の意味がおのずからここにある。
「もの申す。・・・・もの申す」
尋ね当てて来た西八条の武者は、そこの門垣かどがき に立って、内へどなった。
「お医師の、阿部麻鳥どののお宅は、こなたであろうか。これは、西八条よりまかり越した御使みつか いにて候うが」
おりふし、妻のよもぎ は、裏の畑にいた。
子の麻丸は、もう九ツ、次女も、五ツになっている。二人の子をあいてに、ざる に若菜を んでいた。
「おや、お客さまらしい」
彼女は、身のびして、表の方を見たが、物々しい人影に、ぎょっとしたらしく、あわてて台所から、良人の書斎へ駆け込んだ。
「あなた、あなた、武者が見えていますよ、それも大勢」
「え、たれか来たのか」
麻鳥は、机から顔をあげた。
家にあれば、いつも書物に埋もれている彼だったが、このごろはまた、暇さえあると、筆をとって、何か、医学の自著にでもかかっている様子だった。
「何を、そわそわしているのか。客ならば、早く出てごらんなさい。子どもたちは」
「畑にいます」
「おまえも、いつまでも、子どもだなあ」
「三十七ですよ、ことしは」
「はははは、年だけはな」
「あなただって、とうに、もう四十をこえたではありませんか」
「困ったものだ」
「どうしてです」
「おたがい、なかなか、大人おとな にはなれん。そのうち、白髪が生いても、まだ、こんなことで、暮らしちまうかもしれないな」
「おやおや、わたくしたちは、いつの間にか、 け過ぎてしまったと、月日のあとを、悲しんでいるのに」
「おまえのいう大人と、わしの思う大人とは、意味が違うのだよ。年ばかりとっても、大人といえるものじゃない。・・・・おう、垣の外でまた、訪れが聞こえているわ。蓬、御用を伺ってみい」
「でも、いやに物々しい人数です。検非違使からでも来たんじゃないでしょうか」
「ええ、役にたたぬやつ」
面倒に思ってか、麻鳥は、自分で立った。
そして、柴垣しばがき の戸をひらき、
「麻鳥はわたくしですが」
と、小腰をかがめた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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