つい、いまし方まで、ここは、二位ノ尼と、入道の話し声が、とぎれとぎれながら、笑いさざめきさえ交えて、静かに、もれていたのである。 「このぶんなら・・・・」 と、一門の人びとのうちには、いちど、わが館へ帰った者すらあるほどだった。
事実、清盛も、よほど熱も下がり、気分もよかったらしく、二位ノ尼を、いくたびか、 「時子」 と、呼び、 「近ごろは、わずらいでも致さねば、そなたと、こいう睦
まじゅうおるひまもない」 などと苦笑したり、また、 「おもえば、清盛のような男の妻となったのは、そなたの、倖に似て、じつは、女の不幸であったよのう。・・・のう、、二位どの」 と、沁々しみじみ
いったりしたという。 時子と、呼ばれたせつな、彼女は、はからずも、別な自分を、久しぶりに見出した。── おもえば、自分は、ただ一個の女性 ── 時子でしかなかったのが、いつのまにか、出入しゅつにゅう
には、准三后じゅうさんごう の儀仗ぎじょう
に護られ、子に会うのも、夫と語るのも、ただの人妻として、また母として、することが出来なくなっていたのである。いったい、これが人間のなんの栄華、女としてのなんの誇り。 つねづね、思わないではなかった。しかし、不平の言えることでもない。冷やかな白ねりの絹に身をくるむごとく、半生、女の心もくるんできた。つい老いるまで、別な自分になりすましていた。 良人は、それを言ってくれた。──
時子と呼んだ一語の内に良人にも、じつは、同じ想いのあったことがわかる。彼女は、夕べから怺こら
えていた涙をはじめて清盛の枕にそそいだ。そして 「・・・・夫つま
なればこそ、夫なればこそ」 と、しがみつきたい思いにかられた。 清盛の腕かいな
は、彼女を抱いていた。── ああ、老夫婦。そう言いたげに、眼はふさいせいた。 処女のごとく、その昔の時子のごとく、二位ノ尼は、良人の顔のそばに顔をまかせた。──
むうっと、熱くさい。なお、お熱がある。二位ノ尼は、しかし、身のいのちに代えても、このひとの玉の緒お
を、離しはしないと心で言っていた。 病殿には、さっきからたれもいない。ふしぎにも、なにか無限に楽しかった。むかし、この人へ嫁とつ
ぐ前に、この人が、夜な夜な、三日通いに、忍んで来たあのときのように、うれしさが、こみあげてくる。 「・・・・まだ、お苦しゅうございますか」 「いや。・・・・ああ・・・・からだが」 「おからだが?」 「なにか雲の上に、浮いているようだよ。苦痛もなにもない」 「きっと、このまま、お癒なお
りあそばすでございましょう」 「時子」 「・・・・はい」 「そなたが」 「・・・・なんでございますか」 「そなたが」 「おや、おん涙などを、眼まな
じりから」 「ぬぐうてくれい」 「なにをお考えあそばしましたか」 「そなたが、今日は、菩薩ぼさつ
のようにおれには見える。観世音菩薩のように」 「もったいない。なんで、わたくしなどが」 「いや、大勢の子ども、一門のやから、女おんな
たち、みな、そなたの蔭の助けで育てられて来た。清盛は、それらのことは、何もせぬ。おれがしたのは、福原の都、厳島の造営、それから、世を良くもしたが、悪くもした。世を正そうとして、世は乱脈になり果てた。しょせん、清盛のやったことは、あらまし、泡沫うたかた
にすぎぬ。・・・・残ったのは、何もない。・・・・おれは、そなたにとって、味もない良人だった。が、そなたは、よい母として、妻として、こう、いまわの際までも、おれの枕辺に、かしずいていてくれる。拝みたい、清盛は、そなたを、菩薩とおろがむ」 「いやです。そんな、不吉なことを仰っしゃっては」 悲鳴を吐くように、二位ノ尼は、泣きむせんだ。その咽むせ
び声は、しかも、非常に、若やいでいた。尼の老いたる声ではなく、むかしの時子の声であった。 「・・・・が、楽しかったなあ」 清盛は、手を動かした。妻の手に、手をあずけると、また、瞼まぶた
をふさいだ。どかんと、急に落ちくぼんだように、眼の辺りが、二つの穴に見えた。 「あなた。あなた」 聞こえなかった。ギクとして、時子は顔のいろを引いた。が、清盛はぽかっと、また眼を開いて、 「水薬師のころのそなたに、そなたが見える。・・・・初めて、重盛を生んだときよ。大雪だったのう。おれは、馬をとばして、雪の中を、刑部卿どの
(忠盛) のお住居まで告げに駆けた。・・・・あのころ・・・・それから、六波羅を開いて住んだ、若葉のころ、螢ほたる
のころ。・・・・二人の暮らしも悪いことばかりではなかった」 にっと、笑った。二位ノ尼にも、笑えとせがむように、白い歯を、乾いた唇のうちに見せた。 それから、まもなく、とつぜん
「寒い」 と言い出したのである。同時に、烈しい全身のふるえを見せ、もう、何を言っても、うけ答えはなかった。 |