〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Y 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (八) ──
さん がい の 巻

2013/09/16 (月)  せん (二)

つい、いまし方まで、ここは、二位ノ尼と、入道の話し声が、とぎれとぎれながら、笑いさざめきさえ交えて、静かに、もれていたのである。
「このぶんなら・・・・」
と、一門の人びとのうちには、いちど、わが館へ帰った者すらあるほどだった。
事実、清盛も、よほど熱も下がり、気分もよかったらしく、二位ノ尼を、いくたびか、
「時子」
と、呼び、
「近ごろは、わずらいでも致さねば、そなたと、こいうむつ まじゅうおるひまもない」
などと苦笑したり、また、
「おもえば、清盛のような男の妻となったのは、そなたの、倖に似て、じつは、女の不幸であったよのう。・・・のう、、二位どの」
と、沁々しみじみ いったりしたという。
時子と、呼ばれたせつな、彼女は、はからずも、別な自分を、久しぶりに見出した。── おもえば、自分は、ただ一個の女性 ── 時子でしかなかったのが、いつのまにか、出入しゅつにゅう には、准三后じゅうさんごう儀仗ぎじょう に護られ、子に会うのも、夫と語るのも、ただの人妻として、また母として、することが出来なくなっていたのである。いったい、これが人間のなんの栄華、女としてのなんの誇り。
つねづね、思わないではなかった。しかし、不平の言えることでもない。冷やかな白ねりの絹に身をくるむごとく、半生、女の心もくるんできた。つい老いるまで、別な自分になりすましていた。
良人は、それを言ってくれた。── 時子と呼んだ一語の内に良人にも、じつは、同じ想いのあったことがわかる。彼女は、夕べからこら えていた涙をはじめて清盛の枕にそそいだ。そして 「・・・・つま なればこそ、夫なればこそ」 と、しがみつきたい思いにかられた。
清盛のかいな は、彼女を抱いていた。── ああ、老夫婦。そう言いたげに、眼はふさいせいた。
処女のごとく、その昔の時子のごとく、二位ノ尼は、良人の顔のそばに顔をまかせた。── むうっと、熱くさい。なお、お熱がある。二位ノ尼は、しかし、身のいのちに代えても、このひとの玉の を、離しはしないと心で言っていた。
病殿には、さっきからたれもいない。ふしぎにも、なにか無限に楽しかった。むかし、この人へとつ ぐ前に、この人が、夜な夜な、三日通いに、忍んで来たあのときのように、うれしさが、こみあげてくる。
「・・・・まだ、お苦しゅうございますか」
「いや。・・・・ああ・・・・からだが」
「おからだが?」
「なにか雲の上に、浮いているようだよ。苦痛もなにもない」
「きっと、このまま、おなお りあそばすでございましょう」
「時子」
「・・・・はい」
「そなたが」
「・・・・なんでございますか」
「そなたが」
「おや、おん涙などを、まな じりから」
「ぬぐうてくれい」
「なにをお考えあそばしましたか」
「そなたが、今日は、菩薩ぼさつ のようにおれには見える。観世音菩薩のように」
「もったいない。なんで、わたくしなどが」
「いや、大勢の子ども、一門のやから、おんな たち、みな、そなたの蔭の助けで育てられて来た。清盛は、それらのことは、何もせぬ。おれがしたのは、福原の都、厳島の造営、それから、世を良くもしたが、悪くもした。世を正そうとして、世は乱脈になり果てた。しょせん、清盛のやったことは、あらまし、泡沫うたかた にすぎぬ。・・・・残ったのは、何もない。・・・・おれは、そなたにとって、味もない良人だった。が、そなたは、よい母として、妻として、こう、いまわの際までも、おれの枕辺に、かしずいていてくれる。拝みたい、清盛は、そなたを、菩薩とおろがむ」
「いやです。そんな、不吉なことを仰っしゃっては」
悲鳴を吐くように、二位ノ尼は、泣きむせんだ。そのむせ び声は、しかも、非常に、若やいでいた。尼の老いたる声ではなく、むかしの時子の声であった。
「・・・・が、楽しかったなあ」
清盛は、手を動かした。妻の手に、手をあずけると、また、まぶた をふさいだ。どかんと、急に落ちくぼんだように、眼の辺りが、二つの穴に見えた。
「あなた。あなた」
聞こえなかった。ギクとして、時子は顔のいろを引いた。が、清盛はぽかっと、また眼を開いて、
「水薬師のころのそなたに、そなたが見える。・・・・初めて、重盛を生んだときよ。大雪だったのう。おれは、馬をとばして、雪の中を、刑部卿どの (忠盛) のお住居まで告げに駆けた。・・・・あのころ・・・・それから、六波羅を開いて住んだ、若葉のころ、ほたる のころ。・・・・二人の暮らしも悪いことばかりではなかった」
にっと、笑った。二位ノ尼にも、笑えとせがむように、白い歯を、乾いた唇のうちに見せた。
それから、まもなく、とつぜん 「寒い」 と言い出したのである。同時に、烈しい全身のふるえを見せ、もう、何を言っても、うけ答えはなかった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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