定成や頼基が駈けつけ、さっそく、脈を取ろうとしたが、何か、吠
えて、取らせもしない。硬直すると四肢しし
は木か竹のようにかたく、胸まで突っ張って、いまにも、悶絶もんぜつ
するかのような形相ぎょうそう
に変った。 「およそ、かような大熱には、出会うたこともございません。世の常の頭風ずふう
、傷寒しょうかん
の病やまい
とはおもわれぬ。このうえは、われらの御投薬のみにてもいかがなももか。都じゅうに名医をお求めあって、よほどな、御治療に努めにことには」 と、定成たちの侍医も、ようやく、狼狽ろうばい
して、枕辺に詰め寄った経盛、教盛などに、もう、ある注意を、ほのめかした。 「では、たれが名医か」 いってみたところで、たれにも心あたりはない。 典薬頭てんやくのかみ
定成さだなり
、施薬院頼基をのぞき、朝廷の典医には、これ以上な医師があるとも思われぬ。一世の名医、和気わけの
百川ももかわ
や丹波雅忠まさただ
は、もう故人だし、現存の医家としては、主税頭定長、入道知康ともやす
など、みな西八条へ呼んである。しいて、他に良医をさがすなら、叡山、南都などの、寺院にはいることもいるが、現下の時局、にわかに迎えることはむずかしい。 「いや、ひとりいる」 と経盛が言った。 「たれです」 と、宗盛の問いに、 「和気百川の弟子」 「ほ、それなら・・・・。して住居は」 「三条西ノ洞院とういん
。柳ノ水のそばにおる阿部あべの
麻鳥あさとり
という者だが」 「はて、あのあたりは、餓鬼町とよばれる貧者の屋群やむれ
がある所ではございませんか」 「そうです。が、貧者の中で、慈父のごとく慕われているということ。近ごろ、仁和寺にんなじ
のうちにおる慈尊院じそんいん
の隆暁りゅうぎょう
からうけたまわった。町医者として、和気百川が随一の門下と申せば、一応、招いてみてはどうであろう」 典医たちは、答えない。 さきに、早馬を出して、宋医そうい
を招こうと評議したときも、うなずかなかった典医たちである。 が、そのときと、今とでは、重態さがまったくちがう。それに、参議経盛は、舎弟中の長兄であり、日ごろは、めったに、意見を口に出さないたちだ。その人の言葉とて、宗盛も、ほかの一族も、 「では、すぐにも」 と、使いを派して、飢餓町の貧乏医者を、心ならずも、迎えにやることにした。 この間とて、病人の清盛は、「・・・・熱い。身が灼や
けるようぞ。熱い」
と、大熱の苦しみを訴え、はたの見る眼もつらかった。 「しょせん、水などで、お冷やし申し上げても、何もなりませぬ。このうえは、どこぞの、雪をお運びください。氷なれば、なおよいが」 医者たちの、さしずである。 春も、もう二月の末。壺
(庭) の梅は散りかけている。 昨日今日、水も温ぬる
む陽気である。京をめぐる山々にも、雪は見えない。まして、氷のあろうはずもなかった。 「龍華りゅうげ
の氷室ひむろ
へ人をやれ」 それも、経盛の言葉だった。 「そうだ、龍華には、古くから雪倉があったわ」 言われてから気づいたのだ。延喜式えんぎしき
にも
“── 近江国志賀郡龍花りゅうげ
谷、氷室一個所” と明記してある。夏の大饗たいきょう
などに、どうかすると、その雪氷が、飾りや馳走ちそう
に膳部ぜんぶ
へ出る。 「早くせねばならぬ。そうだ、さっそく、人や馬をやって」 四、五名が、その用意にと、病殿びょうでん
の廊を立ちかけたときである。高欄の下から、つと、身をのばして、こう、せがむように、叫んだ者がある。 「そのお役目。──
雪氷を雪倉から切り出して運ぶお役目、どうぞ、それがしにさせてください。身を牛馬ともなして、懸命に、御病殿へ、雪氷を運びまする」 たれかと見ると、それは、数日前、入道清盛の怒りにふれて、庭先へ蹴出けだ
され、以来、勘気をうけていた孫の権少将ごんのしょうしょう
資盛すけもり
だった。
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