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次の日。 「あわれ、神明の加護か」 と、西八条の人びとは、眉をひらいた。 「おもいのほか、今朝方にいたって、禅門には、うるわしい御気色
です」 と、典薬頭てんやくのかみ
定成さだなり が、宿直とのい
の廂ひさし へ来て告げたからである。 今朝方といっても、もう陽は高い。膳部寮から心をこめて配はこ
んだ食事は、手もつけられず、病殿びょうでん
から退さ げられた。 経盛、教盛、頼政、忠度ただのり
など、入道の舎弟。また宗盛をかしらに、入道の子息も、すべて別殿に詰めきっている。 さきに、美濃方面へ、出馬した重衡しげひら
と、病中の知盛とももり と、そして入道の勘気を受けた孫の資盛をのぞいいぇは、一門の子弟で、見えぬはない。 女子は九人いた。 長女は、花山院かざんいん
兼雅かねまさ の室であり。次女は安徳天皇の御母建礼門院、三女の盛子は、この世にいない。 四女、五女、みな藤原氏の名門に嫁ぎ、ひとり六女だけは、腹ちがいである。 その六女は、厳島いつくしま
の内侍ないし 迦葉の腹で、福原の山荘で育てられて来たが、後白河法皇の都がえりのさい、意識的に、清盛はその子を側女そばめ
にさしあげた。やがて、法皇の寵ちょう
を受けて、冷泉れいぜい ノ局つぼね
といわれ、今では、法住寺殿ほうじゅうじでん
の後宮こうきゅう につかえていた。もちろん、その冷泉ノ局は、見えていない。 「にわかなお病気いたつき
、それも、御重体と知らされたときは、胸もつぶれるここちでした。・・・・けれど、ああ、これで、少しは心がやすらぎました」 女性にょしょう
は女性たちだけで、一殿いちでん
に籠りあっていた。四女の藤原隆房ふじわらたかふさ
の室、七女の藤原信隆の室、そのむすめ、姪め
など、 「どうか、このまま御本復あそばしますように」 と、ようやく、明るい春の陽ざしを、廂の外に見出していた。 「けれど、二位殿もいらっしゃるのに、どうしてすぐ、諸山の智識ちしき
を請しょう じて、御祈祷ごきとう
なさらないのでしょうか。・・・・さなきだに、世上では、前門を指して、仏敵と呼ばわり、今に仏罰がくだるであろうなどと、悪しざまに申しておりますのに」 「禅門がおきらいでは、しかたがありますまい」 「でも、死か生かの、こんなさかいには、どんな者でも、神仏にすがるものでございましょう」 「めったなことをして、もし、御病中のお気にでもさからってはと・・・・どなたもお口になさらないにちがいありません」 「わたくしが、そっと、おすすめ申し上げてみましょうか」 「めっそうもない」 「いけませんか」 「せっかく、御容態もややおしずまりのところへ」 「なぜでしょう、なぜ、禅門には、ご自身、御法体ごほったい
もとげ、浄海入道と、御法名までお持ちあそばしながら」 「そして、福原には、堂塔もお建てになり、法華堂では、千僧供養の御奉行もなされているのに」 「御本心には、人一倍の御信仰もおありなのです。ただ、南都や山門の悪僧たちを憎しみの余り、去年こぞ
の暮れのような、怖おそ ろしい焼き討ちも、つい、お命じになったものと思われます。禅門のお心は、仏陀ぶつだ
が、御照覧です。わたくしたちが、門前にかわって、南都炎上の科とが
を、おわびしましょう。僧侶そうりょ
でないわたくしたちが、祈祷きとう
しているぶんには、お怒りにもふれますまい」 そこの女性籠にょしょうごも
の廂ひさし では、昼をしずかな誦経ずきょう
の斉唱せいしょう と、低音な鈴れい
や鉦かね の音や、そして、香こう
のにおいが、けむりたっていた。 そのうちに、ど、ど、ど・・・・と病殿びょうでん
から蓬よもぎ の壺つぼ
の南廻廊を、たれか、あわただしく駈けて行くので、女房たちが、簾す
を割って、さしのぞいていると、やがて典医寮の方から、侍医の定成、頼基などが、呼びたてられて、病殿の細殿へ入って行った。 夜来の疲れで、侍医たちは、清盛が落ち着いたのをしおに、つかのま、まどろんでいたのである。──
彼らは、そこを、呼びさまされ、愕然がくぜん
と、不吉な予感にでも打たれたように、入道の臥ふ
す所の帳とばり と、また屏風びょうぶ
とを、ふた重え にへだてた医師の間に伺候した。そして、すわるやいな、入道のあらぬ囈言うわごと
と、すさまじい苦しみ方に、胸をつかれた。 |