〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Y 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (八) ──
さん がい の 巻

2013/09/15 (日)  ど の 看 護みとり (二)

「や。盛俊殿が。戻ってみえた」
「典医がたも、見えられたかや」
「参ったような。やれ、やれ」
家じゅうの者は、眉をひらいた。
といっても、なお、奥の一間には、入道のうめきが、やんではいないが、とにかく、医者の姿は、弥陀みだ 来迎らいごう のように、ありがたくて、拝みもしたいほどだった。
「・・・・御病間は」
典薬頭てんやくのかみ 定成さだなり と、典医頼基てんいのよりもと は、医生三人をうしろに連れて、
「すぐ、禅門のおん枕辺まくらべ へ、ご案内下さい」
と、こわ ばった面をそろえて、奥へ通った。
驚くべきものを見たように、医師たちは、そこの座ったまま、しばらく、かたずをのんでしまった。
夜具よるのものかず いた急病人は、うつ せに、背を高くまろめて、もだえていた。たえまない悪寒さむけ とふるえに襲われるらしく、灯のない壁と夕やみのうちに、それは怪異なもののように見える。
「・・・・・」
定成と頼基は、眼を見合わせ、家人に向かって、 「お明りを・・・・」 と、しょく を求めた。そして、おそるおそる、清盛の枕辺へ近づいたとき、切燈台が、わきに置かれた。
清盛は、枕へ顔を横伏せている。苦しげなその形相ぎょうそう を、無慈悲なまでに、明りが照らした。鼻腔びこう をひろげ、唇をかみ、あぶら汗を額にたたえ、眉と眉のあいだには、針を立てたような深いしわ が、あらわれていた。
「いかがなされましたか」
「禅門、禅門」
「定成でおざる。頼基も参っておりまする。おこころ安く思し召されませ」
「・・・・ともあれ、おん脈を」
医者たちは、左右から、夜具よるのもの をとりのぞいて、容態を診にかかったが、胸の下へ、屈折している手も、そのこぶしも、動かばこそ、おそろしい力である。
うめ きのたびに、両の肩、背なかに、波をうたせ、爪の先まで、痙攣を示し、口も聞けないし、意志も表情も描き得ない。
ただ、訴えるらしいのは、頭であった。ひどく、頭が痛むかどうか、するらしい。医たちも、手の下しようがなく、
「にわかなお頭風ずふう とみえる」
「火のようなお熱じゃ。まず、解熱げねつ をさしあげるしかあるまい」
頭風とは、悪質な感冒かんぼう たわけである。定成は次室へ退がって、薬籠やくろう のくすりを調じ合わせ医生をして、煎薬せんやく をつくらせた。
そのころ、門前には、おびただしい人馬が押しかけていた。入道相国が、お出先でにわかな御発病とわかり、続々やって来た一族が、とてもこの屋敷には入りきれず、道にあふれて、 「御容子は」 「御病状は?」 と墨のような夜色と憂いを、揉み合っているのだった。
大理卿だいりきょうく 時忠ときただ も、宗盛も、馬で駆けつけ、
「すぐ、西八条へ、お移しまいらせい」
と、車のうちに、夜具まで運ばせ、家人けにんとく して、うながしたが、
「典医方の仰せでは、とても、いまのところ、お移しは、ご無理であろう、おんやまい のためにも、よろしゅうあるまいとの、御評議でございまする」
と、奥からの答えであった。
「さまで、おわるいのか」
宗盛は、時忠と一緒に、すぐ病間へ行きかけたが、廊の途中で、教盛のりもり に行き会った。教盛の顔は、もっと沈痛なものだった。 「・・・・おそばへ参っても無駄だ。いまは、うつつもないお苦しみ」 というのである。そして 「しばらくは、医たちにまかせ、やや落ちつかれ給うしおを、ひそと、お待ち申すしかあるまい」 と、言う。
かくて、病人のからだを、この家からそっとかか え出したのは、夜半も過ぎて、明け方近いころだった。
外には、入道の夫人二位ノ尼の車も来ていた。建礼門院の御使みつか いの女房、阿波ノ局も車を立てている。女車だけでも幾輌いくりょう とも数え切れない。そして彼女たちは、車を降り、道に菅莚すがむしろ を展べてすわっていた。数珠ずず を指に、夜もすがら、天に祈っていたのである。
大勢して、入道をかかえ入れた車廂くるまびさし のうちには、雪を重ねたようなしとね が見えた。やがてまた、入道のあとから、白絹のころもに白絹の頭巾ずきん をした老女が、ひとつ の内にかくれた。いうまでもなく夫人の二位ノ尼である。
揺るぐともなく、静かに、牛車の輪がめぐり出した。簾中れんちゅう の病人と、二位殿の胸を気づかって、あとの車も、車わきの騎馬も、お互いの声すらはばかった。およそ、音もない車馬の列と、松明たいまつ の流れが、西八条へ水のようにつづいてゆく。
ふと、入道の車の内で、囈言うわごと じみた入道のうめきが聞こえた。また、しばらく進むと、二位ノ尼のむせ ぶがごとき声ももれた。「・・・・そばに、」妻が来ている」 と、清盛は気がついたことであろうか。── それとも昏々こんこん として分からぬために、二位ノ尼が泣いたのであろうか。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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