〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Y 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (八) ──
さん がい の 巻

2013/09/15 (日) 入 道 発 病 (二)

ところが、その知盛は、二十六日ごろ、なんの沙汰も待たず、不意に、征地から都へ帰ってきた。
「何ゆえぞ」
このことにも、入道はひどく怒ったが、知盛の帰洛は、まったく、急病のためと分かって、やや不機嫌の色を直し、翌二十七日、
「何病か、容態はどうなのか、よく てまいれ」
と、侍医の典薬頭てんやくのかみ 定成さだなり を、知盛の邸へ差し向けた。
その定成が、やがて、復命のため、もどって来た時、めずらしく、入道相国は、他出していた。
「院の御所へでも?」
と、定成が、蓬壺ほうこ の近習にたずねると、
「いや、今日のにわかな御他出は、法皇の御所ではないようです。── 九条原口の平盛国殿のお邸へとか」
「ほ。・・・・盛国殿のお招きへ」
定成は、これまた意外な、というような顔をした。
平盛国といえば、入道清盛にとっても、ずいぶん縁の遠い父系の一族である。
祖父正盛の従兄弟いとこ なのだ。この春、八十八にもなる老齢な人である。今日は、しの人の家で米寿のえん があるとか、定成も聞いてはいた。しかし、入道相国が、みずから、そんな遠縁の、しかも、世間さえ忘れている老武者の家へ臨もうとは、嘘みたいな気がしてならない。
「ほんとに、盛国殿の賀筵がえん へお渡りになったのでしょうか。どうも、おめずらしいこともあるものですな」
典医の寮へ帰って、そこの医生いせい薬師くすし などとも、うわさしたことだった。── そしてこの日は、入道が不在のせいか、西八条のてい も、時局のけわしさを一日忘れているように、鳥の音までが、春らしく、のどかに思われた。
すると、たそがれ近くである。
「── すぐ、お越しください。定成どの、ほか、典医、医生の方々にも」
と、あわただしく、医寮の外へ来て、どなっている人びとがある。
見ると、主馬判官しゅめのほうがん 盛国の家から、使いに駈けて来た盛国の子息、盛俊もりとし だの、西八条に留守していた公達や武士たちである。
「な、何事が、起こりましたか。一体、ど、どうなされたので」
と、物々しさに、定成も、つい、あわてた。
いや、使いの盛俊すらも、息をきって、声さえ、かすれかすれであった。
「禅門には、急に、御発病でおざる。── もう、お帰りという間際に当って」
「げっ、禅門相国が」
「はやくなされい。何を、猶予」
「た、ただ今」
典医たち三、四名は、薬籠やくろう をかかえ、医寮の庭口から、どやどやと、走り出した。
西の平門まで、駈けるあいだにも、定成は、迎えの盛俊にむかって、
「よほど、熱でもお高い御様子でしたか」
「さ。・・・・しきりと、お頭痛を訴えれておられましたが」
「そして、すぐお横にでも」
「いぶせき一室ながら、夜具よのもの をさしあげて」
「おう、おふせ りで」
「が、すこしも、じっと、お横になっておられませぬ。よほど、御苦痛らしく、両の手で、かしらを抱え、おさむけのしきりなせいか、おふるえになっておられた。・・・・やあ、駈けてなどいては、もどかしい。からもかも、馬に乗られい、馬を召されい」
典医や医生は、馬には不馴れである。しかし、武者たちは、遮二しゃに 無二むに 、彼らのしり を押し上げて、みな馬に乗せ、そして一頭一頭の尻を、ムチでなぐりつけた。馬は驚いて、つる を離れた矢のように飛び出した。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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