〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part U-Y 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (八) ──
三
(
さん
)
界
(
がい
)
の 巻
2013/09/15 (日) 入 道 発 病 (一)
右京大夫の侍従は、恋のため、追放された。幾日か後には、建礼門院の内を出て、泣く泣く、都の人目立たぬ片すみの
侘住居
(
わびずまい
)
に、身を移した。
資盛は、謹慎した。── そのうちに、禅門のご機嫌を見て、一同からおとりなしを申そうからと、一時、門脇殿が、彼の身柄を預ったかたちである。
しかし、、入道清盛の起居は、それから、ただの一日とて、安らかとは見えなかった。
侍女の
乙御前
(
おとごぜ
)
さえ、
「今日は、み気色も、おうるわしそうな」
と、ともに眉をひらいたことはない。
従って、
蓬壺
(
ほうこ
)
の近習は、みな、入道の怒りにふれることばかり恐れて、薄氷を踏むような気づかれに
尖
(
とが
)
りあっていた。
こういう西八条の門へ、以後二月中、諸国からつぎつぎに聞こえて来る飛報には、どれ一つといえ、平家のとって、
吉兆
(
きっちょう
)
なものはなかった。
わけて、鎮西の状勢は、日のたつほど悪い。
豊後
(
ぶんご
)
の
緒方三郎
(
おがたさぶろう
)
維義
(
これよし
)
が
反
(
そ
)
むいて、
大宰府
(
あざいふそ
)
が、反軍の手に堕ちたという悲報。
緒方党につづき、
臼杵
(
うすき
)
、
戸次
(
とつぎ
)
、
松浦党
(
まつらとう
)
も、寝返りして、
叛旗
(
はんき
)
を
翻
(
ひるがえ
)
したなどという取沙汰も高い。
また、河内国石川郡の石川義基と、その子息、
判官代
(
ほうがんだい
)
義兼
(
よしかね
)
も、源氏に通じ、六波羅からは、しぐ討手の兵馬数千が、駆け向かっている。
さらに、清盛の胸に、こたえたのは、紀伊の熊野別当
湛増
(
たんぞう
)
の心変わりであった。
重代、平家と一心同体の者と、かたく信じていたのが、たちまち、変心して、源氏方に呼応し、那智、新宮に兵火を起こし、また一手の兵力は、伊勢へ出て、伊勢大神宮を荒らしまわり、松坂、山田など、随所に、兵革を起こしていると聞こえた。
伊勢は、平家の発祥地だ。清盛の父、忠盛以前からの、いわゆる本領地である。
「・・・・そこすらも、足もとを見られて来たか」
と、清盛にとっては、惨たる回顧と、そして、支えきれぬ崩壊の物音を、もう、自分だけは、はっきり聞いていたにちがいない。
木曾、東国はもちろん、
宇内
(
うだい
)
全土、敵旗を見ないところはなくなった。そういうおりもおりである。美濃、尾張地方にわたって、先ごろからまた、
妖雲
(
よううん
)
の如き一軍が起こっていた。各地の
目代
(
もくだい
)
や、平家の与党を攻めたて、
破竹
(
はちく
)
の勢いで、はやくも、不破ノ関を突破し、今にも都へ上ってくるかのような風聞である。
やがて、その一軍の正体は、新宮十郎行家の率いる美濃源氏の一党が中心と分かった。
「行家こそは、
以仁王
(
もちひとおう
)
の令旨をたずさえ、頼朝、義仲をそそのかしたる叛賊の張本なれ」
と、清盛はその月の上旬、宗盛の舎弟にあたる三位中将
知盛
(
とももり
)
に、万余の大兵をさずけ、美濃平定に向かわせていた。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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