資盛は、広縁のおばしまから、庭へ落ちた。蹴落とされたまま、地にひれ伏した。 「う、失
せおれっ。今が、いかに非常の世か、身に知るまで、門に帰るな。・・・・ああ、見るも、いまいましいやつよ」 五体の老いの骨をがたがた鳴らした。そして突然、その顔は、子どもがベソをかいたような皺しわ
になった。はったと、資盛の背をねめすえ、唇にけいれんを刻みながら、制しきれない余憤をなおも浴びせかけた。 「東国、信濃、紀伊、西国までも、いまし平家に背く輩やから
が、時を得たりと、叫びおうて、蜂起ほうき
している様が、なんじには分からぬのか。・・・・もし、なんじの父、小松内府重盛が世にいたら、その姿を見て、なんと嘆こう、この入道が足蹴あしげ
のような生やさしい折檻せっかん
ではおくまいが。・・・・」 息がつづかない。肩で言うのである。 「思えば、なんじの自堕落じだらく
は、幼少からのものだった。忘れもせぬ、あれは嘉応二年のことよ。なんじの乗れる牛車と、摂政基房の乗れる牛車とが、途上で大争いを起こし、多くの科人とがびと
まで出したが、因もと を糺ただ
せば、親の威光をかさにきたなんじの罪ではなかったか。以後数年、伊勢の片田舎に、蟄居ちっきょ
を命じ、いささかは、性根も直ったかと思い、重盛が亡な
き後は、ひとしお、入道も慈いつく
しみをかけてきたものを、かかるおり、役儀の陣座をまぎれ脱け、女房通いにうつつを抜かしておるようでは、もはや清盛も思い切ったり。── 誰たく
ぞ、この男を、わが眼の前より遠ざけろ」 人びとは、とりなすひまも見出せなかった。清盛は、やっと、落ち着きを取り戻して、座に返ったが、 「常ならばとにかく、まだ喪も
にある中宮のお側に仕えながら、男と忍び合うなど、右京大夫の侍従と申す女房も不埒ふらち
。今日限り、女も、建礼門院の御内より追放させい」 と余憤はしずまっても、なお、にがにがしい語気で、門脇殿かどわきどの
へそれをいいつけた。 |