権
少将資盛は、維盛これもり の弟で、亡き小松内府重盛の次男である。 この少将資盛は、いつごろからか、建礼門院徳子の側に仕えている右京大夫の局つぼね
と、恋しあっていた。 右京大夫は、歌人藤原俊成の養女で、彼女もまた、歌をよくし、音楽や書道にもすぐれていて、中宮 (徳子)
からも愛されていたが、それにもまして、周囲の公卿や公達は 「むかしは、紫の君。いまの才媛さいえん
は、右京大夫の侍従」 と、さわがれていた。 資盛とは、相思そうし
の仲だった。 けれど、高倉上皇の喪も
に服して、中宮が深くお引き籠こも
り中のため、この春ばかりは、二人の逢う瀬も、まったくなかった。 恋はたれをも盲目にする。そんな時ほど、逢いたさがなおつのる。二月のある夜、資盛は、築土ついじ
ごしに、中宮の御所にまぎれ入った。── そしてやみに匂う白梅の明りをたよりに、右京大夫の局に忍んで、罪ふかい快楽けらく
をぬすんでいたのだった。 運悪く、その夜、備後びんご
の鞆とも ノ津つ
から、西八条と六波羅へ、早馬がはいった。 ── 事の次第は。 伊予の住人、河野こうの
通清みちきよ は、清盛が、安芸守のころから目をかけていた者だったが、俄然がぜん
、平家に背いて、源氏側と、何か、うごきを諜しめ
しあっていた。 すると、備後の額ぬかの
入道西寂が、これを知って、 「年来、恩義のある平家を裏切る卑劣者」 と、急いで兵を催して、内海を渡り、通清の居館を急襲したうえ、その首を挙げて帰った。 ちょうど、そのおり、通清の一子通信みちのぶ
は、留守だったのである。 通信は、無念やるかたなく、報復の機会をさぐっていた。そして先ごろから、額入道が、鞆とも
ノ津つ の遊女に通っていることを知り、決死の旧臣数十名をかたらって、舟を漕こ
ぎ出し、額入道が泊っている妓楼を目がけて、夜半、海からおどり上った。 通臣は、額入道の首を獲ると、また、疾風はやて
のように、舟で四国へ逃げ去った。── そして、今度は公然と、伊予の一角から、 「平家を討とうよ。源氏とともに、極悪平家を討たんと志す者は、伊予へ来い」 と、源氏の白旗を掲げているというのである。 ──
もう夜半過ぎていたが、備後からの飛脚状は、ただちに、清盛の寝所へ、達しられた。 いつ、いかなる時刻でも、遠国の飛脚は、即座に、手もとへさしよこせと、特に近ごろ入道から言い渡されているためである。 寝所の簾す
や帳とばり の蔭に、明りがゆらぎ、入道はすぐそこを出て、披見ひけん
した。そして、それから暁にかけて、一族のたれからが、名ざしで、招き出されたのだった。 ところが、権少将資盛だけは、どうしても、行方が知れない。近来の情勢と、世上の非常に備えて、召次番から、宿直とのい
、昼の侍者じしゃ 、また遠侍や、陣座の武者まで、すべて、西八条はいま、準戦時態勢にあるのである。──
それなのに、資盛が見えない。 と、六波羅の住居をも、問わせにやったが、 「西八条にお詰めです」 家人は何も知らずにいう。 やがて、集議も終わってしまい、夜も白みかけて来たころ、資盛は、右京大夫の侍従の移り香をこっそり抱いて帰って来た。 姿を見て、青侍の一人は、 「不時のお召しで、お行く先を、さまざま、おたずねのようでしたから、そのおつもりで」 と、資盛へ、耳打ちした。
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