「あ、つ。・・・・あ、つ、つ、つ」 立てまわいた屏風
の蔭である。とつぜん、月輪殿つきのわどの
の頓狂とんきょう な声がした。 室には、艾もぐさ
の煙が立ち込めている。日課の灸治きゅうじ
をしているらしいことは、屏風の内をのぞいて見るまでもない。 月輪殿とは、右大臣九条くじょう
兼実かねざね の通り名だった。 摂政の松殿
(基通もとみち
) の叔父君にあたり、博学で故典こてん
にあかるく、微笑さえも、いやしくない。そういった風な謹厳家である。 そのお人が、今みたいな叫びをもらしたのは、よくよく熱かったに違いない。 毎日、この月輪の別邸へ通って来て、灸治している灸やいと
法師ほうし もまた、びっくりして、月輪殿が、あわてて肌から振り払った艾もぐさ
を、揉も み消しながら、 「あ、おゆるしを。どうぞ、おゆるしくださいませ」 と、背のうしろで、詫わ
びぬいた。 「・・・・やれ、熱いことであったぞ。火のついた艾が、肌着の間に落ちたのじゃな」 「まことに、粗相つかまつりました」 「よい、よい。・・・・あとを」 「はい」 灸医師やいといし
の鈍阿どあん 法師ほうし
は、残りの灸きゅう のつぼを、順々に点す
えて行った。けれど、いつになく、それからは、手がふるえた。 「鈍阿どあん
。いかがせしか。いつものようでないの」 「は、はい」 「何か、憂いでもあるのか。心配事でも」 「おそれいりました。まことは」 灸治が終わると、鈍阿は、座をすべった。そして、しも座に、両手をつかえ直したが、とたんに、その面を、涙にしていた。 「つい、先夜でございまする。長年、西八条殿に仕えていた伜せがれ
めが、お暇も仰がず、無断で宿へ逃げ帰って参りました。仔細しさい
を問えど、答えだに致しませぬ。ただ、武者奉公はもういやじゃとのみ申して、物も食らわず、毎日、ふさいでおりまする。すると昨夕、西八条の追捕が来て、不埒ふらち
な逃亡者よと、縄なわ にかけて、連れ去りました。あわれ伜せがれ
めも、今日は御成敗になったころか、なお、命だけは、あろうやなどと、親心の乱れから、つい、思わぬ粗相な仕りまして」 「・・・・そうか」 兼実は、重げに、顔をうなずかせ、 「したが、そちの子息は、なんで、そのように、にわかに、武者勤めをきらうのか」 「母親へは申したそうでございまする。昨今、西八条に内にいるのは、地獄に飼われている心地がする、自分もやがて戦場へ送られるにちがいな。屍かばね
を野にさらし、鳥や獣の餌え になるほどならと、思い余って、逃げたとか」 「ほ、戦いくさ
をきろうてとな?」 「されば、六波羅の内にも、西八条の仕つか
え人びと にも、戦を恐れて、伜同様、逃げたいと念じている者は、多いそうでございまするが」 「ああ、宿命だの」 「それのみか」 と、鈍阿法師は、声をひそめた。 「──
入道相国しょうこく の御み
気色けしき は、かの南都炎上のこと以来、日々、お険けわ
しさを加えて、何事にも、とげとげしゅう声を荒らげ給うがゆえ、西八条の仕え人は、生きたそらもなく、朝夕、入道の我鳴がな
り声に、恐れおののいておりますそうな」 「うム、近ごろ、人もみなそのように申すの。中には、入道乱心などと言いふらす者もあるが」 御乱心などの儀は、世の悪あ
しざまな偽いつわ り言ごと
でございましょう。けれど、夜半やはん
、時ならぬころに、人びとを召し招かれたり、朝まだき、遠山にのぼる炭焼の煙をながめ、すわぞと、武者の陣座へ、物見を仰せ出し給うなど、おりおり、異い
なお振舞いはあるそうで」 兼実が、衣服を着直しているうちに、客殿きゃくでん
の方には、もう、幾人かの訪客が待っていた。二度まで、ここへ召次めしつぎ
の知らせがあった。 |