〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Y 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (八) ──
さん がい の 巻

2013/09/12 (木) 「ぎょく よう 」 筆 者 (一)

「あ、つ。・・・・あ、つ、つ、つ」
立てまわいた屏風びょうぶ の蔭である。とつぜん、月輪殿つきのわどの頓狂とんきょう な声がした。
室には、もぐさ の煙が立ち込めている。日課の灸治きゅうじ をしているらしいことは、屏風の内をのぞいて見るまでもない。
月輪殿とは、右大臣九条くじょう 兼実かねざね の通り名だった。
摂政の松殿 (基通もとみち ) の叔父君にあたり、博学で故典こてん にあかるく、微笑さえも、いやしくない。そういった風な謹厳家である。
そのお人が、今みたいな叫びをもらしたのは、よくよく熱かったに違いない。
毎日、この月輪の別邸へ通って来て、灸治しているやいと 法師ほうし もまた、びっくりして、月輪殿が、あわてて肌から振り払ったもぐさ を、 み消しながら、
「あ、おゆるしを。どうぞ、おゆるしくださいませ」
と、背のうしろで、 びぬいた。
「・・・・やれ、熱いことであったぞ。火のついた艾が、肌着の間に落ちたのじゃな」
「まことに、粗相つかまつりました」
「よい、よい。・・・・あとを」
「はい」
灸医師やいといし鈍阿どあん 法師ほうし は、残りのきゅう のつぼを、順々に えて行った。けれど、いつになく、それからは、手がふるえた。
鈍阿どあん 。いかがせしか。いつものようでないの」
「は、はい」
「何か、憂いでもあるのか。心配事でも」
「おそれいりました。まことは」
灸治が終わると、鈍阿は、座をすべった。そして、しも座に、両手をつかえ直したが、とたんに、その面を、涙にしていた。
「つい、先夜でございまする。長年、西八条殿に仕えていたせがれ めが、お暇も仰がず、無断で宿へ逃げ帰って参りました。仔細しさい を問えど、答えだに致しませぬ。ただ、武者奉公はもういやじゃとのみ申して、物も食らわず、毎日、ふさいでおりまする。すると昨夕、西八条の追捕が来て、不埒ふらち な逃亡者よと、なわ にかけて、連れ去りました。あわれせがれ めも、今日は御成敗になったころか、なお、命だけは、あろうやなどと、親心の乱れから、つい、思わぬ粗相な仕りまして」
「・・・・そうか」
兼実は、重げに、顔をうなずかせ、
「したが、そちの子息は、なんで、そのように、にわかに、武者勤めをきらうのか」
「母親へは申したそうでございまする。昨今、西八条に内にいるのは、地獄に飼われている心地がする、自分もやがて戦場へ送られるにちがいな。かばね を野にさらし、鳥や獣の になるほどならと、思い余って、逃げたとか」
「ほ、いくさ をきろうてとな?」
「されば、六波羅の内にも、西八条のつかびと にも、戦を恐れて、伜同様、逃げたいと念じている者は、多いそうでございまするが」
「ああ、宿命だの」
「それのみか」
と、鈍阿法師は、声をひそめた。
「── 入道相国しょうこく 気色けしき は、かの南都炎上のこと以来、日々、おけわ しさを加えて、何事にも、とげとげしゅう声を荒らげ給うがゆえ、西八条の仕え人は、生きたそらもなく、朝夕、入道の我鳴がな り声に、恐れおののいておりますそうな」
「うム、近ごろ、人もみなそのように申すの。中には、入道乱心などと言いふらす者もあるが」
御乱心などの儀は、世の しざまないつわごと でございましょう。けれど、夜半やはん 、時ならぬころに、人びとを召し招かれたり、朝まだき、遠山にのぼる炭焼の煙をながめ、すわぞと、武者の陣座へ、物見を仰せ出し給うなど、おりおり、 なお振舞いはあるそうで」
兼実が、衣服を着直しているうちに、客殿きゃくでん の方には、もう、幾人かの訪客が待っていた。二度まで、ここへ召次めしつぎ の知らせがあった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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