正月十四日の宵である。 夕方から粉雪が、もう町すじを白くしていた。入道相国を乗せた牛車の供人
は、雪まだらな牛の体へムチを振り鳴らし、六波羅池殿いけどの
へと急いでいた。 「お年からいえば、まだ、春はこれからという上皇きみ
なのに・・・・」 車は、五条大橋を、とどろに渡って行く。 冷ひ
え込む両のひざを組み合わせ、入道は、この内にあって、物見ものみ
(窓) の簾す を打つ幻のような雪風の明滅を、眼をうつろに見つめ
── 「上には、御孝心篤あつ
く、下々には、お情け深く、何事につけ、お気性きだて
のよい上皇であったが」 と、ひそかな悔いに責められていた。 ── 自分と後白河法皇との不和が、どれほど、上皇のお心を傷め、また、おからだにも障さわ
っていたことか知れまいと思う。 後白河は、御実父。 自分は、高倉の上皇きみ
の舅しゅうと である。 いわば、親おや
と義親おや との争いにはさまれて、いいようもない御苦境に、その青春を萎しば
ませられたお方だった。 早くに、御退位を見たのも、そのためであり、厳島御幸の御立願ごりゅうがん
も、そこにあったことは、下々まで、およそ知らない者はない。 以後、お体もすぐれなかったのは、まったく、そうした御心労のせいである。とりわけ、お淋しかったに違いないと思われるのは、清盛の娘、中宮ちゅうぐう
(おきさき) の徳子とも、ひとつのお暮らしさえ久しく絶えていたことであろう。 上皇と徳子との間に御子みこ
(安徳天皇) はむつけきのうちに御位につかれ、建礼門院徳子も、国母として、つねに幼帝を抱いて朝廟ちょうびょう
にあるため、飽きも飽かれもせぬ鴛鴦えんおう
(おしどり) のおん仲とて、一つ御所に住むわけにはゆかなかったし、 「吾あ
が妻よ」 「吾あ が良人よ」
と心で呼びあうことさえ、何かの儀式に列するときでもなければ、相見る日はなかったのである。 「・・・・罪な。・・・・思えば罪な」 どこから吹き入るのか、車の内まで、螢ほたる
のように、雪が舞った。 |