〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Y 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (八) ──
か ま く ら 殿 の 巻 (つ づ き)

2013/09/09 (月) みみせみ (三)

重衡は、広縁へ出て、将士を指図し、戦場から持ち帰った四十九人の法師首を、順に、庭先へ披露した。
が、入道は、その二つ三つを実検すると、すぐ舌打ちして、こう言った。
「よせ、よせ、もうよい。武門の誇りにもならね法師首、見るも物憂ものう い。一緒にのまとめて、芥塚あくたづか へでも けてしまえ」
ふつう、敵方の主なる者の首は、大路おおじ を渡して、衆人に見せ、獄門の木にかけるのが慣例であったが、こんどは、そのことも取りppや められた。
取り廃めたといえば、年暮くれ行事ぎょうじ から、正月の恒例こうれい まで、すべての式事も見合わせらしい。
それについて、右大臣兼実からも、
「宮中元旦がんたん のおん儀、四方拝のこと、諸臣拝礼の有無、節会せちえ のおん催しなどは、どういうことになりましょうか」
と、問い合わせて来ている。
時局のけわしさには、年暮くれ初春はる もない。 「出来たら、やるもよい。出来なかったら、行わぬもよい」 ── 入道はそう答えてやった。
別室には、朱鼻あけはな伴卜ばんぼく が伺候していた。
例の、兵糧米ひょうろうまい集荷しゅうか が、依然、はかばかしくゆかないのである。そのため、まか り出て来たらしい。
「院宣を仰ごう」
入道は断固と言った。
「かかる非常の場合、やむを得まい。諸国の公田こうでん荘園しょうえん にむかい、兵糧米を課すとの院宣をくだ す」
もうひとつ、伴卜から入道へ、直裁を仰いでいた問題がある。
奥州藤原氏への回答だ。
金売り吉次から、伴卜を通して、秀衡ひでひら が求めて来たものと、平家側の望む秀衡ひでひら の全面的協力との、締結だった。
「もし、秀衡が、頼朝追討の勅をうくるならば、功として、充分な御爵は与えよう。・・・・が、密使の吉次とやらには、入道の内意と申し、ひとまず、その程度に伝えておけ。明春、さらに秀衡の肚を確かめたうえで、勅使を奥州へくだ すであろう」
伴卜は、旨を受けて、退 きさがった。
もちろん、彼と吉次とは、べつにまた、時局の裏で、何を取引していたか知れたものではない。しかしまもなく、吉次が奥州へ帰ったことだけは確かである。
── ともあれ、それらの枝葉的な動きはおいて、今や運命の日は、全平家の上に、近づいていた。その年の暮れから治承五年の正月にかけては、一日きざ みといってよいほど、事々みな、およそ、平家の衰兆すいちょう でないものはない。
わけても、新院高倉の上皇きみ が、にわかに、御危篤とあって、あわただしいお使いが西八条へ駆け入った夕は、入道もしょく の前に茫然ぼうぜん たる面持ちであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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