〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Y 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (八) ──
か ま く ら 殿 の 巻 (つ づ き)

2013/09/08 (日) みみせみ (二)

子煩悩こぼんのう に過ぎると、常には言われている入道清盛であったが、今朝は、重衡の姿を見ると、いきなり頭から叱咤しった した。
「兵はまだ、夜来やらい物具もののぐ も解かずにおるのに、大将たるおこと は、おのれひとり家に帰って、ぬくぬくと、眠って来たのか」
「いえ、わが屋敷へ帰ったのではございませぬ」
「では、今ごろどこから戻って来たぞ」
「母の二位殿からお召しがありましたゆえ」
「二位殿が、何用あって」
「南都焼き討ちの報を、聞かれ給うて、気でも狂うたかと、わたくしをお叱り遊ばしてやみません。・・・・悲しや一門一族は、仏敵の罪を負い、死後まで地獄の責苦せめく はのがれまいぞ・・・・と、お嘆きやら、お叱りやら、かき口説かれて参りました」
「おことく は、何と答えたか」
「おなぐさめ申す言葉もなく、ただただ、重衡が落度のみ・・・・」
びたのかよ」
「はい。お詫びのほかには」
「なぜ、父の命だとは、言わなかったぞ。父入道の厳命にて、やむなくと申し切ればよいに」
「二位殿にはそれは御存知でござりまする。しかし、あれほどにとは、父君も仰せられず、重衡も、思いもよらなかったことでございました。── 敵の法師勢が、ことごとく、寺中へ逃げ込みましたゆえ、暗がりの合戦では、由緒ゆいしょ ある宝舎ほうしゃ や堂塔を踏みこぼ ちもせんと、足元の明りにと、民家へ火を けたのが、悪かったのです。──時ならぬ強風のため、火は、あなやというまに、東大寺へも、興福寺の諸伽藍しょがらん へも」
「ば、ばかな」
入道は、烈しく、彼の言葉をさえぎった。
「強風のためだったと、おこと は、世迷よまごと を申すのか」
「まったく、あのすさ まじい大風さえ起こらなければ」
「さような言い訳を、たれに言う気ぞ、今さら世間がそんな言に耳をかそうや。── 二度といくさ を出さずともよいように奈良を らしめて参れとは、この入道が申し付けたこと。・・・・また、おりからの大風が、七大寺の堂塔を灰燼かいじん に帰せしめたのも、何やら人業ひとわざ とも思われぬ。いわば天意だ。天も無用の社寺の荘厳そうごん や坊主どもの末法堕落の様を怒らせ給うて、天罰を示したものといってよい。・・・・・いずれにせよ、かくなるうえははばか るな、世上へヘタな言い訳顔をするのはよせ」
「はいっ・・・・」
「罪はおれがかぶる。清盛は、死後の地獄など恐れてもみぬ。極楽もまた望んではおらぬ。願うことは、おこと らがみな仲良くして、一門をかため、諸民をいつくしみ、一日も早く世を泰平に」
言いかけて、彼は、何とも言えない寂しいかげ を老いの姿にけむらせた。必然的な人間の天寿といったような考えが、ふっと、意識を突き抜けたものとみえる。明日のはかなさを知って、明日を語る自信を欠いていたのかも知れない。
「ともあれ、今が、わが一門の浮沈ぞ。外へ対して、内のひる みを見するな」
それから、彼は、強いて毅然きぜん とすわり直し、
「いで、悪僧どもが首を見ようか。 ぞ、首目録を読み上げてゆけ」
と、言った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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