〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Y 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (八) ──
か ま く ら 殿 の 巻 (つ づ き)

2013/09/08 (日) しゃく しん だい ぶつちょう にん げん (四)

南都炎上。ひと口に言われるものの、およそ、治承四年十二月の、興福寺、東大寺の焼亡ほど、後の世まで、悲しまれた惨事はない。
わけて大仏殿でん は、聖武の御代、天皇が、平和の祈りを、地上の万世へかけて、建立こんりゅう されたものだという。金銅こんどう 五丈三尺の盧遮那仏るしゃなぶつ ── 平和の御願ぎょがん をみかどの めおかれた巨大な黄金像は ── 燃えくずれる万丈の火のちり の中に、黄金、紫金しこん百毫びゃくごう の光を放ち、まるで、この人間愚を、微笑しているかのように、灼熱しゃくねつ された御姿を、さんらんと明らかにし、それを眼に見た武者どもは、眼がつぶれたかと思い。弓を伏せ、刀を下げて、わっと、遠くへ逃げ退 いたという。
無残は、それだけではない。
それにまさる非業ひごう な跡は、火中に焼け死んだ人びとである。大仏殿の二階では、千七百余人が死に、興福寺では、八百余人の死体が後に見出されたとある。そのほか、ある御堂では何十人、ある塔下では何人と、数え切れないほど、たくさんな人が死んだ。
まだある。戦い討たれた僧兵である。これも、千人に近いといわれた。
あくる二十九日。
重衡は、僧兵の首級を、般若寺はんにゃじ の前に、切りかけさせ、主なる大法師らの首だけを、おのおの、馬のくら わきにゆわ い付けて、洛内へ、引き揚げた。
南都二た晩の炎は、洛外からも望まれていたに違いなく、野山に働く何も知らない農夫から、都の道ばたに、茫然ぼうぜん とむらがっている庶民まで、みな、悲しげなまな ざしで、凱旋がいせん の将士を見ていた。
中宮、後白河、また御病中の高倉上皇も、この由を聞かれ、
「世も終わりか。入道殿には、天魔に魅入みい られ給えるよ」
と、お嘆きに沈まれたという。
春日野の露の色も変わり果て、三笠山の姿も、真っ黒にへん じてしまったと、心ない人びとまでが悲しんだ。人びとは、入道の心に、魔物まもの いたのだと言ったり、いやあれが御本性だと恐れたり、そして、やがてはこの仏罰をこうむらずにはいまいと、口をそろえて、言い合った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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