南都炎上。ひと口に言われるものの、およそ、治承四年十二月の、興福寺、東大寺の焼亡ほど、後の世まで、悲しまれた惨事はない。 わけて大仏殿
は、聖武の御代、天皇が、平和の祈りを、地上の万世へかけて、建立こんりゅう
されたものだという。金銅こんどう
五丈三尺の盧遮那仏るしゃなぶつ
── 平和の御願ぎょがん をみかどの籠こ
めおかれた巨大な黄金像は ── 燃えくずれる万丈の火の塵ちり
の中に、黄金、紫金しこん 、百毫びゃくごう
の光を放ち、まるで、この人間愚を、微笑しているかのように、灼熱しゃくねつ
された御姿を、さんらんと明らかにし、それを眼に見た武者どもは、眼がつぶれたかと思い。弓を伏せ、刀を下げて、わっと、遠くへ逃げ退の
いたという。 無残は、それだけではない。 それにまさる非業ひごう
な跡は、火中に焼け死んだ人びとである。大仏殿の二階では、千七百余人が死に、興福寺では、八百余人の死体が後に見出されたとある。そのほか、ある御堂では何十人、ある塔下では何人と、数え切れないほど、たくさんな人が死んだ。 まだある。戦い討たれた僧兵である。これも、千人に近いといわれた。 あくる二十九日。 重衡は、僧兵の首級を、般若寺はんにゃじ
の前に、切りかけさせ、主なる大法師らの首だけを、おのおの、馬の鞍くら
わきに結ゆわ い付けて、洛内へ、引き揚げた。 南都二た晩の炎は、洛外からも望まれていたに違いなく、野山に働く何も知らない農夫から、都の道ばたに、茫然ぼうぜん
とむらがっている庶民まで、みな、悲しげな眼まな
ざしで、凱旋がいせん の将士を見ていた。 中宮、後白河、また御病中の高倉上皇も、この由を聞かれ、 「世も終わりか。入道殿には、天魔に魅入みい
られ給えるよ」 と、お嘆きに沈まれたという。 春日野の露の色も変わり果て、三笠山の姿も、真っ黒に変へん
じてしまったと、心ない人びとまでが悲しんだ。人びとは、入道の心に、魔物まもの
が憑つ いたのだと言ったり、いやあれが御本性だと恐れたり、そして、やがてはこの仏罰をこうむらずにはいまいと、口をそろえて、言い合った。 |