〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Y 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (八) ──
か ま く ら 殿 の 巻 (つ づ き)

2013/09/07 (土) 馬 と 鹿 (四)

人為じんい のほかな人為がある。
何か、眼に見えないものが、この世を、動かしているのではないか。そう、疑われもするような、偶然や、不可思議な作用が、この世にはある。
おりもおり。
入道清盛が、妹尾兼康と、次郎大夫の二人を退しりぞ けて、
「ちと、物憂ものう い。いつもの、薬湯やくとうせん じてくれよ」
と、近習にいいつけ、それを飲んで、夜具よのもの を引きかず こうとしていた時である。
義弟の大理卿だいりきょう 時忠ときただ が、訪ねて来た。
時忠が、会いに来るのは、いつも何か、重要問題ときまっている。抜け歯のせいか、入道の心には空洞くうどう ができ、しきりと妄念もうねん の鬼が、空洞に躍っていた。
「会うのも、物憂いし、会わぬも、気がかりだし・・・・」
迷ったが、思い直し、帳台に内に、臥床ふしどしつら えを見せた部屋へ、彼を通した。
「どこか、お悪いのですか」
と、時忠は、すぐ、顔色をうかがって言う。
「── いや」 と、重たげに、入道は顔を振り 「大理卿、何事かある」
と、訊ねた。
「されば、これを御覧くださいまし」
と、一通の書状を示した。
興福寺から、叡山えいざん 延暦寺えんりゃくじ へあてた密書である。
内容は、解くに困難なほど、簡略な文だが、それを見ると、久しく不和な南北の二山が 「平家打倒」 のもとに結ばれて、頻々ひんぴん と、連絡を交わしていることが、充分に、証拠だてられる。
なお、仔細しさい に、熟視じゅくし していると、鎌倉とも、通じている匂いがして来る。清盛は、毛穴がよだった。抜け歯の悪寒おかん のせいばかりではない。
「時忠。・・・・これは?」
「奈良と、叡山との、峰道通いに、検非違使けびいし の武者を伏せおいて、使いの法師を捕え、やっと手に入れたものにござりまする」
「山門に、明雲座主みょううんざす がおられる以上は、憂いはないと、思うていたが」
座主ざす も、はや、飾り物、大衆だいしゅ大衆だいしゅ との結合には、抗しえません。いかに、明雲座主が平家へ心をお寄せくださろうとも、今は、施すすべもなきやに見えまする」
「どうしたらよいか」
「さて、どういたしたものやら」
名案もない。打つ手もない。
時忠は、夜にはいって帰った。そして、清盛の寝間には、以後、通った者もなかった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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