〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Y 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (八) ──
か ま く ら 殿 の 巻 (つ づ き)

2013/09/07 (土) 馬 と 鹿 (三)

「・・・・なに。猿沢のばぎさに、六十余人のわが郎党の首を掛け並べたと」
清盛は彼の言葉を、逐一聞き終わって、さすがに、心の平静を保ちきれない容子だった。
「・・・・うむ」
幾たびも、幾たびも、かわ いた下唇を、前歯で、こするように、 みしめた。
余りに強く唇を噛んでいたせいであろう。根のゆるい老いの前歯の一つが、ミリッと口の中できし んだ。── 無意識に、彼はてのひら で、口をふさ いだ。舌の先から、その掌へ、異様なほど大きく感じられるものが、ポロリと吐き出された。
歯が抜けた。腐っている大きな根である。
唇の端に、ほんの少し、血が滲んだ。清盛は のうえの物を見て、
「この日ごろ、物食うたびに、痛みうず いていたのは、これだったか。── 糞坊主くそぼうず
血のつば を、懐紙へ吐き出し、歯をくるんで、高欄おばしま ごしに、庭面へほうり捨てた。
すると、庭先へ、遠侍とおざむらい の一人がひざまずき、
「奈良より逃げ帰って来たと申す。次郎大夫じろうたいふ 友方ともがた と、ほか、二、三の郎党が、ただ今、妹尾殿せのおどの を慕うて、中門まで見えましたが」
と伝えに来た。
妹尾兼康は、
「さては、ゆうべ、乱闘の間に、 ぐれ別れた味方の者でございましょう。はて、かような所へ来ても」
と、当惑顔をした。
清盛は、兼康がつぶやいているまに、庭面の侍へ、自分から命じていた。
「次郎大夫友方とやら一名を、ここへ通せ。その者からも、何か、べつなことを、聞き得るやも知れぬ」
しぐ、その男は、庭前へ来て、平伏した。
彼は、福井ノ庄の下司げす から、六波羅へ転役して来たばかりの者だが、妹尾兼康について、きのう奈良へ向かった一人だった。
正直者なので、いい渡された通り、あくまで、無抵抗を守っていた。そのため、かえって、敵の法師に、さんざん、 ったり踏んだりされたあげく、捕虜になってしまった。
一晩、大木の根につな がれ、他の者は、夜明け前に、みな、首を打たれてしまったが、彼のみは、置き忘れられていた。
場所が、鬱蒼うっそう たる森の蔭だったので、つい、見出されずにしまったらしい。
昼になっても、たれも来なかった。そのまま根気よく、縄目なわめ を食い切り、首尾よく、命拾いして来ました ── と、兼康に語るのだった。
「ほかには、なんぞ、 なことを、見なかったか」
兼康が問うのを、待っていたように、次郎大夫はまた答えた。
「恐ろしいことを、眼に見申した。それは、かような儀でおざる」
と、清盛の前もはばからず ── いや清盛の前なので、なお、たか ぶって、言ったのかも知れない。
興福寺では、平相国へいしょうこく (清盛) の御寿命をちぢめ参らせんと、暁天の鐘を合図に、寺々で修法を行っている。そして、それがすむと、大勢の法師が、南大門の広場へ出て来て、
(打て)
(踏め)
(打ち砕け)
などと言いはやしながら、不思議な遊戯をやり始めた。一個の大きな木製のまり を、大勢が争って蹴上げたり、杖で打ちすえたり、唾したり、両手にさし上げて叩きつけたり、そして、どっとわら ったり、何しろ、異様な熱意でやりつづける。
よく見ると、その木製のまり には、入道殿の似顔が描いてある。つまり大きなその木毬きまり を、平相国の首と見立てているのである。
杖は、毬杖ぎつちよう といって、先が槌形つちがた になっている杖であり、それで木毬きまり を打ち争う競技である。その遊戯にことよせて、じつは、清盛調伏じょうぶく の気勢をあげているものだった。
「おそれ多くも、今上の外祖父におわせられる御方に対し、あろうことか、あるまいことか、これや、魔界の魔の所為しょい 、見る眼も恐ろしと、眼をおおうて、逃げもどりまいた。・・・・およそ、興福、東大寺の大衆は、そのように、物狂うた有様にござりまする」
と、述べたてた。
清盛は眉も動かさなかった。石と化した人のようである。ただ、なおにじ み出た歯ぐきの血が、臙脂えんじ のごとく、唇の端に乾いていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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