あくまで、政治的処理を方針と決めていたので、清盛は、大和守兼忠の知らせを受けても、 「立ち帰って、常の如く、役務を執
っておれ」 と、あっさり、帰した。 しかし、恐
こわ いのは、自分だと思っている。── 兼忠の報告を聞く間にも、昂
たか まる感情が、こめかみ辺りで、長虫のように、脈を打つ。 憎
にく さ、憤 いきどお
ろしさ。また、時局が時局だけに、底知れない不安にも襲われてくる。 「兼康かねやす
。── すぐ参って、関白殿を、お迎え申し上げて来い。入道より、折り入っての、御懇談があればと」 命を受けた妹尾太郎せのうのたろう
兼康かねやす は、やがて、夜には入ってから、関白基房の車につきそい、西八条へ戻って来た。 「奈良の春日や二大寺、特に興福寺は、藤原氏代々の氏寺うじでら
でおざろうが」 清盛は、まず言った。 基房の手によって、南都の不穏をなだめ、彼らの底意は何か、不平は何か、求むるものを聞いてくれと、頼んだのである。 「承うけたまわ
りました」 基房は、深更しんこう
に帰った。── 氏うじ ノ長者ちょうじゃ
たる家柄に自信があった。南都の大衆も、自分には服すだろうと、考えていた。 で、ただちに、興福寺衆とは関係の深い、有官うかん
ノ別当べっとう (勧学院の長官)
忠成に、旨を含め、使者として、奈良へやった。 何事の不平があるにしても、所存の旨は、幾度でも、奏聞そうもん
に及んだらよいではないか。西八条へ訴え出なくとも、院の御所へ奏そう
したらよい。 ── 近ごろ、院政も以前に復し、法皇の叡旨えいし
によるお裁さば きを仰ぐことも出来るものを」 と、なだめさせたのである。 ところが、しの伝達が、正しく寺中へ披露出来ないうちに、 「入道の使いを、乗物から引き落せ」 とばかり、気の立った興福寺大衆は、牛車を襲ってさんざんな狼藉ろうぜき
を加え、使者の忠成を、追い返してしまった。 右衛門督うえもんのかみ
親雅ちかまさ は、関白から差し向けられた二度目の使者であったが、これも興福寺山門にかからぬ途中で、大衆の暴行にあい、大衆は口々に、 「髻もとどり
を、切っ払え」 「髻もとどり
を切れ」 と、わめき騒いだ。 断髪の私刑は、最大な侮辱である。その主君への辱しめでもあった。 親雅ちかまさ
の供をして来た勧学院の雑色数人が、髷まげ
を、ちょん切られ、親雅も切られぞこなった。彼は、頭をかかえ、ほうほうの態てい
で、都へ、逃げ帰った。 |