「時忠、一度、都の大掃除をやれ」 清盛は、西八条の第
へ入った直後、大理卿時忠を招いてそう言った。 また、そのさい、 「近ごろ、近江源氏と称して、義経なる者が、しきりに、徒党を狩り集め、不穏ふおん
を醸かも しておると聞くが、先年、お汝こと
と義経の間には、以後、洛内に凶徒は入れまじと、証文にしるし、かたく誓約したことではなかったか。── まんまと、御辺は、義経めに、計られたな」 と、初めて、あのおり、時忠がとった処置への不満を匂わした。 「いや、時忠は決して、彼に、たばかれてはおりません」 時忠は苦笑しながら、抗弁した。 「──
仰せの、義経とは、山下義経と申し、まことの九郎義経は、約をたがえず、奥州へ去り、今では、鎌倉におりまする」 「では、別人か」 「まったくの別人です」 と、はっきり答え、 「その山下義経と申すは、新宮十郎行家の子息で、新宮行宗という者。──
仰せ出でを待つまでもなく、機を見て、庁ちょう
(検非違使) の兵を差し向け、一掃いっそう
せんと考えていたところでした」 「庁の武者だけでは心もとない」 清盛は、思案の末、 「知盛を大将として、べつに、近江へ一軍を出そう。大理卿だいりきょう
たる御辺ごへん は、あくまで、洛内の治安と、不安の一掃に心がけて欲しい」 と、言った。 時忠の洛内粛清は、烈日のような厳しさを極めた。 空き屋敷だの、寺院の庫裡くり
だの、また羅生門の上に巣食っていた無数の浮浪や飢民まで狩り出して、都の外へ追い払った。 これがまた、下層民の、平家に対する怨みとなったのは、いうまでもない。 一方。 知盛は、一子知章ともあきら
とともに数千の兵を率いて、近江の堅田へ出撃した。 湖族ノ庄は、不意をつかれたかたちで、炎々たる黒けむりをあげ、知盛の兵馬に思いのまま駆け散らされてしまった。 堅田三家の者は、山下義経を主将に、坂本まで退がって、交戦したが、さrに、湖畔を逃げなだれ、さいごに園城寺おんじょうじ
へ、立て籠もった。 ここに拠よ
って、 「出で合え、出で合い候え」 と、山門や南都の同心へ呼びかけ、そのまに、東国へ早馬を飛ばして、鎌倉勢の上洛を求めようとしたのである。 だが園城寺
(三井寺) は、さきに以仁王もちひとおう
と頼政の謀叛むほん に与くみ
したとき、六波羅兵のために、焼き払われ、今は、守るに足るような楼門や墻かき
もない。 それでも五、六日は、焼け残りの堂塔と地の利をたのんで、抵抗したが、知盛からの戦況を受けた入道相国は、 「すぐ行け」 と、なお平清房きよふさ
を将として、兵三千を、急派した。 わずかに残っていた園城寺の一部も、たちまち大火焔だいかえん
となって、林泉も焼け、山も焼け、堅田党の主なる者、また近江源氏のたれかれも、ほとんどが、討死か、捕虜となった。 |