〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Y 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (八) ──
か ま く ら 殿 の 巻 (つ づ き)

2013/09/02 (月) 浮 巣 の 都 (三)

入道清盛は、なお、あとに残った。
「おれは、始末をして、あとより参る」
と言い、還幸を見とどけてから、数日後に、福原を出たのであった。
「生涯のうちに、ふたたび、この福原へ来る日があるrかどうか」
雪ノ御所を去るに当たって、彼は、これまでにない感傷を抱いた。
その朝、だだ一人で、楼上に立ち、輪田ノ磯から経ヶ島の築港、寄せ返す白波の海原うなばら など、飽かぬおも もちでながめていた。
「おれが去ったら、ここはまた、元のわびたる礒藻いそも と松風だけの漁村になろう」
手しおにかけて育てたものと別れるような愛惜を、彼は、この土地に抱いた。
「福原にきょ を構えてからでも十四年、さかのぼれば、冠者かじゃ のころからの、宿縁の地であった。・・・・いや、このような港となし、町とするまでには、清盛が半生の全智と財を傾けたよいってもよい。・・・・だが、今はここをも、捨てねばならぬか」
── たれか自分と福原との別離の深情を知ってくれるものぞ ── といいたげで。
たれもありはしない。天下、たれひとり、それを知ってくれる者はないのだ。
── と思うと、清盛のために、その惜別の深さをなぐさめてやれるのは、清盛のほかにない。
主上、上皇、法皇はいわずもがな、公卿百官も、一門のともがら までも、還都と聞くや、あのように喜びと、あわただしさをもって、うしお の退くごとく、旧都へさして、争い帰ってしまった、── あとの福原に一顧いっこ の惜しみも、一片の思いも、残しはしない。
「世は泡沫うたかた というが、山河の悠久ゆうきゅう に変りはない。今の人間どもの姿こそ、まこと、泡沫うたかた のままよ。清盛がけい を立て、思いを燃やしたこの国への望みと未来の如きは、彼らにとって、いわば身の迷惑にすぎないのであろ・・・・・やんぬるかな。・・・・ああ」
その日、残る軍兵数千を率い、福原をあとに、陸路、旧都へ立った清盛の心には、人知れず、もう、二度とこの地を見る日はえるまいという予感があった。
なぜならば、彼としても、
「三度の都うつ しは出来ぬ」
と、近側へも、つぶやいていたし、都を置く所に、今は、自分の身もおかずにいられない四囲の状況だからである。
しかし、入道清盛が、西八条へ帰った後も、その状況は、良くならなかった。
むしろ、空巣の都に跳躍ちょうやく していた分子が、またぞろ、流言、放火、強盗など、あらゆる撹乱をやり始めて来た。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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