〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part U-Y 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (八) ──
か ま く ら 殿 の 巻
(つ づ き)
2013/09/02 (月) 浮 巣 の 都 (二)
その夜は、
花隈
(
はなくま
)
の岡のほとり、
大納言
(
だいなごん
)
那綱
(
くにつな
)
の別邸が、
行在所
(
あんざいしょ
)
にあてられた。
翌朝、二十四日の御出門には、
左大将
(
さだいしょう
)
実定
(
さねさだ
)
も見え、大理卿時忠の姿も見え、そのほか、前夜から今暁にかけて伺候したひとびと ──
藤宰相
(
とうのさいしょう
)
定能
(
さだよし
)
左近衛少将
(
さこんえのしょうしょう
)
有房
(
ありふさ
)
中宮大進
(
ちゅうぐうのたいしん
)
光綱
(
みつつな
)
蔵人
(
くろうどの
)
兼時
(
かねとき
)
吉田経房
などもそろって供奉に従い、
前
(
さき
)
の右大将宗盛とか、
維盛
(
これもり
)
、
知盛
(
とももり
)
などの一族と
公達
(
きんだち
)
は、べつに数千の軍兵を、先駆と
後陣
(
ごじん
)
に配して行った。
高倉上皇も、同時刻に、御車で発進され、車添いには、騎馬の公卿九人、武者大勢が、お付した。そして、
大物
(
だいもつ
)
ノ
浦
(
うら
)
からは、
数百艘
(
すうひゃくそう
)
の船に乗りわかれ、すべて海路に移った。
なお。── この朝、後白河法皇は、べつに福原を未明に立たれ、夕刻、寺江に着き給い、主上や上皇と、一緒になった。
けれど、
行在所
(
あんざいしょ
)
でも、法皇と上皇とが、御父子のかたらいを温めるようなことはなかった。
法皇は、船の中で、夜を過ごされた。
次の二十五日は、冬雲の低い淀川を、数百艘の船列が、さかのぼっていた。
この日も。みぞれ交じりの風雨となり、川波は
舷
(
ふなべり
)
を打ち、目鼻もちぎれそうな寒さだった。御座船の
屋形囲
(
やがたがこ
)
いや、
幕
(
とばり
)
の蔭には、女房たちや
奉侍
(
ほうじ
)
の公卿が、袖を打ち
被
(
かず
)
いて、
冬鴨
(
ふゆがも
)
の眠るような姿のまま、日ねもす、ふるえおののいていた。
風浪のため、船列はみだれ、
賢所
(
かしこどころ
)
の船や
内侍所
(
ないしどころ
)
の船も、途中から
迷
(
は
)
ぐれてしまい、そのほか、公卿たちの船も、遅れたのが多い。
やむなく、船中で一夜を過ごされ、旧都にお入りになったのは、翌二十六日の
午
(
ひる
)
すぎだった。福原から旧都までのわずかな道を、じつに四日がかりであった。── 寒風、
惨烈
(
サンレツ
)
、
行旅
(
カウリヨ
)
ノ
難
(
ナン
)
、筆ニモ言葉ニモ尽シガタシ ── と随行の公卿日記は書いている。
かくて、主上は、五条の
里内裏
(
さとだいり
)
へ。
後白河法皇は、もとの
法住寺殿
(
ほうじゅうじでん
)
の内へ。
また、御病中の高倉上皇は、六波羅
池殿
(
いけどの
)
を、一時の仮御所として、お入りになった。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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