〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Y 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (八) ──
か ま く ら 殿 の 巻 (つ づ き)

2013/09/02 (月) 浮 巣 の 都 (一)

思い立つと性急せっかち で横紙破りな入道殿にゅうどうどの とは、日ごろも、清盛に対する万人の定評ではあるが、こんどの還都かんと についても、布令ふれ をうけた公卿たちは、余りに突然に、あき れもしたし、うろたえた。
「御門出の日は、何かの間違いではあるまいか。今日とて、霜月しもつき (十一月) の十九日よ。それを、二十三日の御還幸とは?」
「あと三日じゃ。・・・・なか 三日しかない」
「わずか、三日の間に、なんの支度ができようぞ。家族どもの始末やら家移やうつ しの用意もある。そてに自身は、供奉ぐぶ いて行かねばならぬし」
「夏の初め、福原へ遷都せんと のおりも、六月一日に沙汰され、三日目にはもうあのにわかな行幸みゆき であった。入道殿には、三日もあれば、都遷みやこうつ しも、都還みやこがえ りも、難なく出来るものと、思われているのであろう」
「さても、人の迷惑は物ともし給わぬ入道殿かな。・・・・というて、元の都へ帰れるかと思えば、うれしくて、愚痴も消ゆるが」
人びとの前には、こう、眼の色変えた通りな忙殺ぼうさつ ぶりが降ってわいた。狼狽ろうばい と、よろこびの混錯こんさく だった。足もとから鳥が立つような家移やうつ し騒ぎに、いずこも、ごった返している
雪ノ御所は、わけて、戦時のようだった。附近の重衡しげひら の邸、教盛のりもり の邸、盛俊の邸なども、いうまでもない。
清盛から特命を受けて、還幸の儀を進めている吉田経房などは、二十三日の当日だけでも、新院 (高倉上皇) の御所と、雪ノ御所との間を、四回も往復していた。
冬十一月のこと。幸いに、二十三日は晴天だった。
経房が、清盛との打ち合わせをもって、新院の御所へ戻って来たのは、もうひる ぎで、諸公卿と、さいごの談合を終わり、ただちに、上皇の御出門を見た。
それより少し前に。
福原皇居の門からも、天皇の出御があった。
行幸みゆき供奉ぐぶ と、御幸ごこう の列とは、まもなく、途上で一つになった。
幼い天皇 (安コ) は、御母の建礼門院のおひざだった。御輿みこし葱花輦そうかれん である。屋根のとがりに、ねぎ の花に似た金色の装飾がかがやき、美しい手欄てすりめぐ らされ、八人の舎人とねり きまいらせて行くのであった。
掃部頭かもんのかみ 李弘すえひろ 、お道を払い、少納言有家、鈴奏れいそう を奉仕し、右宰相うさいしょう実守さねもり が、剣璽けんじほう じて行った。
どうしたのか、供奉につくはずの大理卿時忠が遅参したので、蔵人頭くろうどのかみ 重衡しげひら が、時忠の役を代って勤めたが、そのほかにも、遅れて、まだ、姿の見えない公卿が多かった。
主上の御出門さえ、この始末である。
いかにあわただしい、そして不ぞろいな、還都の行幸であったことか。
けれど、一門の人びと、摂政以下の卿相雲客けいしょううんかく の心は、言わず語らず、
“── さしも かりつる新都福原に、誰か、かた時も残るべき、われ先に、われ先にとぞ、のぼ られける”
と、あるように、思いはあとになく、先にばかり急いでいた。
また、吉田経房の手記 「吉記きつき 」 によると、夕方ごろ、小雨が降りだし、悪路のため、途上ぬかるみで落馬する者が多かった ── ということである。
平野から花隈はなくま 辺までの、わずかな間さえ、そうだった。雨、風、寒さ、そして冠からはかま まで濡れしずくになって歩む直衣のうし 狩衣かりぎぬ の諸官の難渋は、思いやられる。── が、それでもこの人びとには、元の都へ帰るのだ、帰られるのだ、という歓びの方が、氷雨ひさめ彷徨さまよ いに耐えながらも、なお、はるかに強い意欲だった。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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