頼朝追討軍の失敗は、都を立たぬ前にあった。それは出陣の出遅れにある。また、上総守忠清の狭量による帷幕
の違和も、それを決定づけていた。 だが、実盛は、忠清の言行については、何も触れなかった。 恨みがましい讒訴ざんそ
は一言も言わず、ただ平軍必敗の兆きざ
しは歴然であるとして、四つの難を、かぞえた。 第一には。 ことしの空梅雨からつゆ
のための飢饉である。西国同様、海道一円も大不作で、現地の食糧は極度に涸渇こかつ
しており、後方の補給も望みがたいこと。 第二には。 沿道の労役不足。飢民の不穏。 代三には。 味方の作戦齟齬そご
があげられる。伊東祐親や大庭景親などの有力な東国の味方が、都の大軍の着かぬ以前に、敵に先せん
を打たれてことごとく滅亡してしまったこと。 代四には。 後方の不安だった。もし尾張の知多あたりへ源氏方が上陸して、海道を遮断しゃだん
するなら、平家二万は、袋の鼠ねずみ
でしかないこと。 このばあい、飢民の来襲も予測されよう。としたら、何分の一が、無事に都へ帰ることが出来ようか。 実盛は、宗盛に向かい、噛か
んでふくめるように、説くのだった。 やがて、宗盛も、いちいちうなずいた。 六波羅の庁令でさえも、糧米の公収はまったく成績が悪い。興福寺大衆や園城寺などの妨害にもよるが、事実、近畿の不作もひどいのである。 遠い戦地への輸送などは、思いもよらないし、現地の調達も困難だとすると、それだけでも、実盛の憂えは、無理もないと考えられた。まして、実情が、すべて実盛のいうようなものだとすれば、頼朝追討の計は、中央としても、大失敗であったと認めるしかあるまい。 「そうか。よく分かった。そちの忠言と、上総守忠清の意見とが、相容い
れぬとみえる。そのため、急を都へ訴えに来たか。・・・・いやいや、そちは申さずとも、察しはつく。・・・・はて、困ったものよのう」 宗盛は、まったく滅入めい
りこんで、 「ともあれ、儂み
の一存では、何も計れぬ。相国しょうこく
禅門へお伺いしてみたうえで」 と、実盛を館に待たせておき、にわかに、雪ノ御所へ車をやった。 |