雪ノ御所では、ただちに、一門の評議となった。しかし多くの者は、疑いを抱いた。 「実盛と申すは、もともと、武蔵長井ノ庄の源氏武者ではおざらぬか」 と、こだわる懸念もあり、また、 「つい先ごろの上総守忠清が書状にも、さような負け色は、露ほども訴えておらぬが」 と、いぶかる者も多かった。 二、三日はすぐ過ぎた。するともう、尾張、美濃路からのしきりな早打ちである。 「・・・・富士川陣のお味方総引き揚げとなって海道を雪崩
れ立って候う」 ── とある。 すべては実盛の予言を証拠立てて来た。彼が憂えていた通り、源氏方の一手は山越えをとり、一手は海上から上陸して、平家全軍の退路を断ちにかかったのである。 たまたま、海道の味方がそれを富士川へ急報したのが原因だった。かねて、実盛の諫いさ
めも耳にあったことだし 「── すわ」 と騒ぎ出したのである。そこへまた、甲斐源氏の武田信義らの奇襲を見、上を下への混乱となり、われがちの潰走かいそう
を起こしてしまったものだった。 逃げ足の早いのは、すでに旧都にたどり着き、途中、源氏の海兵や、飢民に襲われた者は、なお山野をうろついているらしい。 何しろ、支離滅裂となって、続々、引っ返し中であることだけは確かだった。 清盛の不満はひと通りでない。 それは彼が、頼朝の旗挙げを聞いた時以上の、憤り方であった。 頼朝の敵対は、他人の行為である。しかし、この見苦しい、頼りない、そして世間体の悪い負け軍いくさ
をやってのけた将どもは、彼自身の孫であり弟であるのだ。単なる怒りや憎しみではすましきれない。 「宣旨せんじ
を奉じ、大将軍の綬じゅ を拝しながら、どの面つら
さげて、都へ入る気ぞ。維盛、忠度、忠清なんど、大津口よりこなたへ入れるな」 と、いいつけ、そして再び、 「諸士への見せしめ、忠清は打首に処し、維盛、忠度は遠国へ流してしまえ」 と厳命を下した。 しかし、この処分には、宗盛たち一門が、入道相国の座下にぬかずいて、自分たちの落度のように詫わ
びぬいた。初めは、容易に許す気色も見えなかったが、根負けしたかたちで、ついに清盛も、 「それほどまで、おことらが取りなすならば、このたびだけは」 と、やっと言った。 一門の人びとは、ほっと眉を開いて、退出した。けれど、清盛には、なぐさめ得る何もなかった。どこかで平家の晩鐘ばんしょう
を告げるかの想いさえしないではない。そしてこのごろでは、自分の赫怒かくど
にも長くは耐えない疲れを覚えながら、 「── このようでは、まだ清盛も老いてはおられぬ。幼帝の御成人、福原の都づくり、一門のかためなど、もうしばし眼に見るまでは」 と、ひそかに、老虎ろうこ
のうそぶきをなすのであった。四面の楚歌そか
も大廈たいか の崩壊ほうかい
も、その老い骨一つに負って、なお信じている余命の闘志を、無理にでもかき立てようとする彼であった。 |