〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Y 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (八) ──
か ま く ら 殿 の 巻 (つ づ き)

2013/09/01 (日) これ もり せん てん まつ (三)

雪ノ御所では、ただちに、一門の評議となった。しかし多くの者は、疑いを抱いた。
「実盛と申すは、もともと、武蔵長井ノ庄の源氏武者ではおざらぬか」
と、こだわる懸念もあり、また、
「つい先ごろの上総守忠清が書状にも、さような負け色は、露ほども訴えておらぬが」
と、いぶかる者も多かった。
二、三日はすぐ過ぎた。するともう、尾張、美濃路からのしきりな早打ちである。
「・・・・富士川陣のお味方総引き揚げとなって海道を雪崩なだ れ立って候う」 ── とある。
すべては実盛の予言を証拠立てて来た。彼が憂えていた通り、源氏方の一手は山越えをとり、一手は海上から上陸して、平家全軍の退路を断ちにかかったのである。
たまたま、海道の味方がそれを富士川へ急報したのが原因だった。かねて、実盛のいさ めも耳にあったことだし 「── すわ」 と騒ぎ出したのである。そこへまた、甲斐源氏の武田信義らの奇襲を見、上を下への混乱となり、われがちの潰走かいそう を起こしてしまったものだった。
逃げ足の早いのは、すでに旧都にたどり着き、途中、源氏の海兵や、飢民に襲われた者は、なお山野をうろついているらしい。
何しろ、支離滅裂となって、続々、引っ返し中であることだけは確かだった。
清盛の不満はひと通りでない。
それは彼が、頼朝の旗挙げを聞いた時以上の、憤り方であった。
頼朝の敵対は、他人の行為である。しかし、この見苦しい、頼りない、そして世間体の悪い負けいくさ をやってのけた将どもは、彼自身の孫であり弟であるのだ。単なる怒りや憎しみではすましきれない。
宣旨せんじ を奉じ、大将軍のじゅ を拝しながら、どのつら さげて、都へ入る気ぞ。維盛、忠度、忠清なんど、大津口よりこなたへ入れるな」
と、いいつけ、そして再び、
「諸士への見せしめ、忠清は打首に処し、維盛、忠度は遠国へ流してしまえ」
と厳命を下した。
しかし、この処分には、宗盛たち一門が、入道相国の座下にぬかずいて、自分たちの落度のように びぬいた。初めは、容易に許す気色も見えなかったが、根負けしたかたちで、ついに清盛も、
「それほどまで、おことらが取りなすならば、このたびだけは」
と、やっと言った。
一門の人びとは、ほっと眉を開いて、退出した。けれど、清盛には、なぐさめ得る何もなかった。どこかで平家の晩鐘ばんしょう を告げるかの想いさえしないではない。そしてこのごろでは、自分の赫怒かくど にも長くは耐えない疲れを覚えながら、
「── このようでは、まだ清盛も老いてはおられぬ。幼帝の御成人、福原の都づくり、一門のかためなど、もうしばし眼に見るまでは」
と、ひそかに、老虎ろうこ のうそぶきをなすのであった。四面の楚歌そか大廈たいか崩壊ほうかい も、その老い骨一つに負って、なお信じている余命の闘志を、無理にでもかき立てようとする彼であった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ