〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Y 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (八) ──
か ま く ら 殿 の 巻 (つ づ き)

2013/09/01 (日) これ もり せん てん まつ (一)

まだ都の内へは、何の情報も伝わっていないうちのことである。
さきの 右大将うだいじょう 宗盛むねもり は、ふとそこへ取次いで来た形のごとき青侍を、穴のあくほどながめて、
「何じゃ? 実盛が立ち帰って来たと。・・・・なにをほう けたことをいうぞ。頼朝追討のいくさ について、東国へ下った斎藤実盛が、いまごろ、都におるわけはない、人違いであろ、問い直して参れ」
と、あたまから粗忽そこつ な取次ぎとしてしかりつけた。
青侍はしきりに小首をかしげながら引っ込んだが、まもなくまた、廊の間の端へかしこまって、同じ取次ぎをくり返した。
「── やはり別当実盛どのに違いございません。にわかなことのあって、駿河の清見潟から、大将方にも断りなく、単騎、じん して来られたのだと仰っしゃられます」
「なに、脱け陣して来たとや」
「そのせいか、よろい具足を召されたまま、いたくお疲れの容子ようす で」
「はアて、実盛にちがいなくば・・・・これやただ事ではあるまい。すぐ通せ、早く通せ」
仰天とはこんなときのことであろう。宗盛は、まったくびっくりした。
「── おお、実盛ではないか。ど、どうしたことぞ」
「まことに、面目もございませぬ」
「ま、そこでは話が遠い。もそっと近うはいって来い」
「このような陣中姿、旅路のあか 、余りにむさ苦しゅうございますゆえ」
「かまわぬ。・・・・いや、それどころかは」
と宗盛は、彼が近く寄るのを待って、
「たれよりは、よい分別者と信じて、維盛これもり忠度ただのりたす けに添えてやったそなたが、無断、征地を捨てて帰って来たとは、どうしたことじゃ。そも、何事かよ実盛」
と、ひざがしらのふるえを抑えて言った。
死をも覚悟し、老いの疲れも励まして、ここまで持って帰った憂いを、また信じるところを、実盛は、ただちに訴えた。
「せっかく大軍をつかわされ、またおめがね を給わって、不つつかな実盛まで、軍鑑の重任をかたじけのうして下りましたなれど、お味方の惨敗は、火を見るようなものでございましょう。残念ながら十に一つも勝てる見込みは立ちませぬ」
「まだ一戦をまじ えたとも聞かぬに」
「いや、合戦に及んでは、間に合いませぬ。── 恨むらくは、都を立つ前に、すでに御出陣の機を逸していたことです。せめてお味方が、早くに、箱根、足柄を踏まえていたらと」
「それに望みを失って、そちは帰って参ったのか」
「なんの、さほどなことで戦場をあとにいたしましょうや。立ち帰りました仔細しさい は、ここ早速に、五千の援軍をお繰り出し給わるか、さもなくば、令書をくだし、即刻、総勢をお引き揚げあるか、いずれかの策を、お り上げ給わりたいがためにございまする」
「なに、五千の後詰あとづめ をとな。それや容易ではない。御軍勢を呼び返すなどは、なおさら出来ぬ沙汰よ。したが、まだ頼朝の兵も見ぬまに、なぜ、さまでさし迫った憂いを抱くか。憂うるところなれば、維盛、忠度の両将へ進言してなぜよい思案を立てぬのじゃ。・・・・ しいことであはある。そのような軍議を扶けるため、両将に付してやったそなたではないか」
宗盛には、のみ込めない。
もっとも、これだけが、実盛のいわんとする全部ではなかった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next