まだ都の内へは、何の情報も伝わっていないうちのことである。 前
右大将うだいじょう 宗盛むねもり
は、ふとそこへ取次いで来た形のごとき青侍を、穴のあくほどながめて、 「何じゃ? 実盛が立ち帰って来たと。・・・・なにを呆ほう
けたことをいうぞ。頼朝追討の軍いくさ
について、東国へ下った斎藤実盛が、いまごろ、都におるわけはない、人違いであろ、問い直して参れ」 と、あたまから粗忽そこつ
な取次ぎとしてしかりつけた。 青侍はしきりに小首をかしげながら引っ込んだが、まもなくまた、廊の間の端へかしこまって、同じ取次ぎをくり返した。 「──
やはり別当実盛どのに違いございません。にわかなことのあって、駿河の清見潟から、大将方にも断りなく、単騎、脱ぬ
け陣じん して来られたのだと仰っしゃられます」 「なに、脱け陣して来たとや」 「そのせいか、よろい具足を召されたまま、いたくお疲れの容子ようす
で」 「はアて、実盛にちがいなくば・・・・これやただ事ではあるまい。すぐ通せ、早く通せ」 仰天とはこんなときのことであろう。宗盛は、まったくびっくりした。 「──
おお、実盛ではないか。ど、どうしたことぞ」 「まことに、面目もございませぬ」 「ま、そこでは話が遠い。もそっと近うはいって来い」 「このような陣中姿、旅路の垢あか
、余りにむさ苦しゅうございますゆえ」 「かまわぬ。・・・・いや、それどころかは」 と宗盛は、彼が近く寄るのを待って、 「たれよりは、よい分別者と信じて、維盛これもり
、忠度ただのり の扶たす
けに添えてやったそなたが、無断、征地を捨てて帰って来たとは、どうしたことじゃ。そも、何事かよ実盛」 と、ひざがしらのふるえを抑えて言った。 死をも覚悟し、老いの疲れも励まして、ここまで持って帰った憂いを、また信じるところを、実盛は、ただちに訴えた。
「せっかく大軍をつかわされ、またお鑑めがね
を給わって、不つつかな実盛まで、軍鑑の重任をかたじけのうして下りましたなれど、お味方の惨敗は、火を見るようなものでございましょう。残念ながら十に一つも勝てる見込みは立ちませぬ」 「まだ一戦を交まじ
えたとも聞かぬに」 「いや、合戦に及んでは、間に合いませぬ。── 恨むらくは、都を立つ前に、すでに御出陣の機を逸していたことです。せめてお味方が、早くに、箱根、足柄を踏まえていたらと」 「それに望みを失って、そちは帰って参ったのか」 「なんの、さほどなことで戦場をあとにいたしましょうや。立ち帰りました仔細しさい
は、ここ早速に、五千の援軍をお繰り出し給わるか、さもなくば、令書をくだし、即刻、総勢をお引き揚げあるか、いずれかの策を、お採と
り上げ給わりたいがためにございまする」 「なに、五千の後詰あとづめ
をとな。それや容易ではない。御軍勢を呼び返すなどは、なおさら出来ぬ沙汰よ。したが、まだ頼朝の兵も見ぬまに、なぜ、さまでさし迫った憂いを抱くか。憂うるところなれば、維盛、忠度の両将へ進言してなぜよい思案を立てぬのじゃ。・・・・怪け
しいことであはある。そのような軍議を扶けるため、両将に付してやったそなたではないか」 宗盛には、のみ込めない。 もっとも、これだけが、実盛のいわんとする全部ではなかった。
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