〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Y 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (八) ──
か ま く ら 殿 の 巻 (つ づ き)

2013/09/01 (日) 水 鳥 記 (二)

渡り鳥が、また、雲間を縫って行く。
陣地は、半里にもわたっているが、一火の光もなく、馬も人も、眠っているように、寂としていた。
「殿。・・・・他の方々にも、ここへ出て御覧ごろう じあらぬか」
陣幕の外から、岡崎おかざき 義実よしざね が、さし招いた。
何かと、人びとは彼につれて、幕営の外へ出て行った。眼にはいる物もない。びょう として、薄明の大河と雨気をふくんだ月色があるだけだった。
「なんじゃ、義実殿のたばかりよな」
「いやいや、しばし、こうしておられい」
義実は、かぶと のしころを指先で上げ、耳を対岸の方へ向けて見せた。
── オオと、人びとも耳をそばだてた。
おりおり微風に乗って、遠い水のかなたから、優雅な管絃の調べが聞こえて来る。
諸将のうしろにたたず んで、頼朝もはっきり聞いた。
「・・・・はて、あの優雅みやび 優雅みやび なまねは、悠長ゆうちょう さは?」
「いかに平家の公達きんだち とて」
諸将は怪しみあった。坂東武者には けない都人みやこびと の心理なので、もの でも探るような疑心を抱いた。
が、頼朝はそれを、敵が、心の余裕を誇るものと聞いた。示威でさえあると思った。
「憎い敵かな」
そうつぶやいて、
「まだか、約束は」
と、催促さいそく するように諸将を見まわした。
そのとき、はるか上流の安居あご やま のいただきに、星ほどな火が明滅した。それにこた えるように、対岸遠くの富士見峠にも、チラと幾つもの火光がうごいた。
「あっ、見えまする」
「おうっ」 と、頼朝もあたりの諸声もろごえ と共に叫んで 「── 馬を」 とどなった。
令の必要はない。令は事前に行き渡っている。
頼朝は、馬上に、諸将は、部署へ向かって けなだれ、螺兵らへい は貝を吹いた。
真っ黒に、人馬が渦巻く。しかし一律の下にある秩序を示し、それが整々たる陣形をなすとともに、長い岩壁が押し出されるように、河原の際まで、地鳴りをとどろかして駆け出した。
中軍だけではない。
富士川の約半里にわたる水際にそれが起こった。
それと、陣々の全線から三保の川口、海上にかけてまで、松明たいまつ漁火いさりび 、かがり火、野火、あらゆる所に火焔かえん がいぶり出した。これを平家側から望見したら、筑紫つくし不知火しらぬい かとも疑われたにちがいない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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