〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Y 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (八) ──
か ま く ら 殿 の 巻 (つ づ き)

2013/09/01 (日) 水 鳥 記 (一)

十月二十日の夜。雨を思わせる風が、冬にも似ず、生あたたかい。
富士川口の海上も、上流の山岳地方も、いったいに雲が多かった。
薄雲をとおして、二十日ごろの月が、両岸の蘆荻ろてき を、夢のように見せ、夢のように暗くした。
それは、主流だけでなく、大小無数な沼とも続いているように望まれる。所々の樹林、畑、なわて 、遠望しただけでは、どこが敵の陣地やら分からない。これでも敵がいるのかとさえ疑われてくる。
うら悲しくなるほど静かである。
三保のあたりで千鳥が く。
また、え知れぬ水音がどこかで立つ。何かに驚いた水鳥にちがいない。
「しゃつ、平家め、こなたよりのお使いを、斬ったと告げて来たぞ。今、かような矢文やぶみ を」
水辺にこご みこんでいた一隊の内から、ひとりの部将が、敵からの矢文を拾って読み、加島の中陣へ駆け込んできた。
きのう、頼朝はここまで、馬をすすめ、今夕にいたるまで、川をはさんで対峙たいじ していたが、夜の入って、敵の大将権少将維盛へあて、 「夜明けとともに矢合わせ申さん」 と、使者を送っていたのである。
ところが今、上総守藤原忠清の名で返して来た矢文によると、使者の首を ね、これをもって、乱賊追討の血祭りにするとあった。もとより文辞は不遜ふそん を極めている。
「あわれや忠清、今すぐ、眼を ましてくれようぞ」
頼朝はののしった。
決戦状は、一計にすぎないのだ。彼の待つある戦機は、明朝ではない、夜明け前にある。
「・・・・が、さすがは維盛これもり忠度ただのりいくさ は心得ておる。もし頼朝がここまで、何もさと らずに馬を進めていたら、伊豆からは伊東祐親に襲われ、相模路からは大庭一族におびや かされ、甲斐境よりは長田おさだ 忠致ただむね 父子に忍び寄られ、討死のほかなかったろうに」
自己に誇らず、敵方に立って、敵の抱いていた戦略を分析してみると、頼朝は今さらのように、慄然りつぜん とせずにいられない。
およそはと、直感の下に、せん を取った果敢かかん が、図に ったのであった。
「── とも知らぬ忠清よ。さすが維盛も忠度も、自身の施した計略はかりごと が、逆になって現れようとは、さと るまい」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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