~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
長 江 を 渡 る (二)
さまざまな場合がある。
召平しょうへいという人物の場合は、やや事情が異なる。
彼は広陵県(後の楊州)の人で、陳勝がしんに対して反乱を起こすや、自分が住む広陵の町を乗っ取ろうと企てた。野心というには、意図が入り込みすぎている。たとえ乗っ取りに成功しても、
「自立はしないぞ」
と、あらかじめ人々に言っていた。いわば、人を昂奮させない野心家だった。この広陵をみやげに陳勝の傘下に入るのだ、と言っていたが、こういうあたり、陳嬰に似ている。
が、失敗した。
失敗した理由の一つは、彼が、広陵の町住まいの人間ながら秦の爵位しゃくいを持っていたことにもあった。秦は徹底した官僚制度だが、前代の貴族制(封建制)の要素も加味し、爵位の制度があった。
この制度をつくったのは秦がまだ一王国にすぎなかった戦国時代の頃で、法家の政治家商鞅しょうおうの立案による。
爵ハ功ヲッテ先後ト為シ、官ハ能ヲッテ次序トナス(『漢書』)
と後にいわれたように、功績のある者に大官を与えれば彼らは必ずしも有能でないために弊害をまねく。このため、爵を与えてその身を重くするのである。最下級の爵は公士で、これはあるいは遥か後世のイギリスにおける勲爵士ナイトにあたるかもしれない。爵は十八級から二十級ぐらいあり、最高は「侯」であった。召平は、侯である。侯といえば諸侯に似て封建のにおいがするが、秦はその名称のみを取り、実質(たとえば食邑しょくゆう)はさほどになかったらしい。侯というのは、上に地名がつく。召平は、世襲の東陵侯である。その地名 ── たとえば東陵 ── の大名のようにもみえるが、そういう実質はなかった。その点、江戸時代、田舎の神主でも、土佐かみとか佐渡守とかいう官名を爵としてもっていた事情と、多少は似通っている。すくなくとも広陵における召平の場合、実質はそのあたりの小地主や自作農とかわらない。
ただ、彼は自分の教養にほこりがあった。
「秦の小役人どもは、おれをないがしろにしおって」
と、つねづねこぼしていた。彼の不満は、秦のために労役や重税で苦しんでいる庶民には通じ難かったが、しかし不満の深さはそれ以上とも言えた。広陵の県令も、彼に行政上の相談などを持ちかけたり、せめて県の庁舎に手厚く招待して雑談でもすればよかったのだが、もともと秦の役人はそういう気風もやりかたも持っていなかった。
役人のそのような地下じげとの接触のしかたをも含めて、この大陸では、
「徳」
とよんでいた。德は、法の敵のようなものであり、秦の役人たる者のとるべき態度ではなかった。
召平が、ときに県庁へ行って、人民たちは難渋している、労役をすこし減らしてはどうか、などといった意見を述べても、県令は相手にしなかった。召平の不満は自分一個の課題から、人民の苦しみを代弁して秦の暴政をいきどおるところまでひろがった。
──秦朝に対し、すでに天の意は離れている。
などと言い、秦などつぶれてしまうほうが人民のためだ、と思うまでになったが、かといって彼が人民を動かすというところまでは至らなかった。召平の教養が、彼と庶民とを隔てていた。かといって高踏的な書斎人かといえば必ずしもそうではなく、たとえば自らくわをふるって畑を耕したりしている。変わった男であった。物事の道理を極めることが好きなだけに、農事にもり、彼が作る蔬菜そさいはどの百姓の畑のものよりもすぐれていた。
── 召平は農の名人だ。
という評判さえあった。召平自身、
── 百姓はばかだから頭を使わない。
と、つねづね言い、なぜ百姓は俺の所へ物を教わりに来ないのか、と言ったりした。たしかに召平の作るものは、うり一つでもよく肥って、内側から果肉の力がみなぎって皮までが光っていた。
後年の話になるが、漢の世になっても、彼は一介の農夫であることをつづけた。関の長安城外に住み、瓜に凝った。その瓜は見事なもので、人々が、彼が亡秦の東陵侯であったということから「東陵瓜」と呼んで珍重したほどであった。これも後年のことになるが、漢の宰相の蕭何しょうかが召平をその茅屋ぼうおくに訪ねては、政治むこのことから、一身上の保身のkとまで相談したといわれる。
── 召平という人は、ゆうに一国の宰相がつとまる。
と蕭何がいったと言われるし、それ以上に、万能の人ということが言えた。しかし実際にはこの乱世の中にあって多数の人間を引きつけるという要素にはまったく欠けていた。
「わしにまかせておけ」
というたぐいの粗雑な ほら ・・・ が、召平には死んでも吹けなかった。
そのくせ、
── わしが広陵の町を救わねば、どうにもならぬ。
という 律義 りちぎ な使命感のようなものを持っていた。
まことに、この乱世の中にの首領たちにも、さまざまな個性が入り混じっている。
召平は、その一例といっていい。
陳勝が挙兵し、各地で反乱がおこり、広陵も動揺した。召平はすかさず広陵を占拠しようとしし、失敗した。
人が彼のもとに集まらなかったのである。県令のほうが勢いを得て彼を捕縛しようとした。ともかくも、のっけからしくじった。
やむなく彼は五十人ほどの手勢を率いて逃げた。この手勢のおもしろさは美々しく武装していたことであった。彼が財を投げうって軍装を整えさせたためで、理由は、自分の手勢が流民とまちがえられたくないということもあったし、また他日、陳勝に合流する時、たとえ小勢とはいえ儀容が堂々としていれば粗略にあつかわれまいという計算もあった。彼は実務のこそうとかったが、そういう機微に通ずるところがあり、そういう面での準備はまことに綿密であった。
彼は陳勝の軍に投ずべく広陵を脱出し、各地を流浪したが、流浪はこの教養人にとって荷が重すぎた。流浪することは同時に掠奪することであらねばならないが、彼はそれを好まなかった。しかし略奪せねば餓えるし、また逆に他の流賊団から襲撃されて、それと戦わねばならず、陳勝にいる場所へ接近することじたいが、難事業であった。
そのうち、秦の官軍が 函谷関 かんこくかん にあふれ出て来て陳勝の軍をいたるところで撃破したため、召平の小さな隊は、渦に浮く木の葉のように、行くべき方角を失った。孤立することは、全員が餓えるという事であった。
「呉中(今の蘇州)で、亡楚の名将項燕の子孫の者が兵を挙げた」
という耳よりな風説を聞いたのは、この時期である。さらに詳しく風説をかき集めると、項燕の子の項梁という者であり、智謀の士であるという。
「真実、項燕将軍の子や孫なのか」
と、召平がさらに探らせてみると、どうやら事実らしかった。
「項梁の許に行こう」
と、彼は決心した。彼は、揚子江の北岸にいた。古来、渡ることが容易でないとされたこの長江に、徒党と共に小舟の群れを浮かべた。渡れば呉の故地であり、民族までが違うとされている江南の天地である。
2019/12/25
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