~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
長 江 を 渡 る (一)
陳勝ちんしょうが挙兵したころから、雨が多かった。
反乱は、華北においては緩慢で、もとの地において激しかった。とくに今の安徽あんき・江蘇両省という揚子江下流の低湿平野で頻発している。
もともとこのあたりでは、雨は、夏季に集中している。洪水は、毎夏、どこかの地方をひたした。陳勝も盛夏、洪水にはばまれ、捨鉢になって挙兵したように、他の地方でも、一村の家屋も田畑も沈没し、やむなく村ぐるみ流民になって他村を襲ったりした。旧楚の全土が、人が水と共にあふれ出、濁流になってうずまいている。
洪水と反乱が、多くの地域でかさなっていた。
県城が、県下の洪水の為に食糧難におち入り、県城ぐるみ反乱にち上がった土地が多かった。東陽県(安徽省)などがそうである。
「食わせろ」
という要求が、人々の心を一つにした。東陽県の場合も、
「県の穀物倉をひらけ」
と、人々が県庁に押しかけ、県令がこばむと、そのまま暴動になった。城内の少年たちが殺気を帯びて内になだれ込み、あっというまに県令の首をねてしまった。陳勝の決起以後、各地の暴動が多くこの型をとっている。県令の首を刎ね、倉庫を開き、租税として首都咸陽かんように送られるはずの穀物を奪って家々に分配するのである。奪った穀物を食い尽くしてしまうと、県城ぐるみ流民軍になって他を襲う。それとも他地方に成立している強大な親分 ── 英雄 ── の傘下に入って食物の分配にあずかるのである。
東陽県の場合、群衆が県令を殺してから、自分たちに指導者がいないことに気づき、みな狼狽ろうばいした。
事態は切迫していた。頭目を推戴すいたいせねば、せっかく倉庫の扉を開いて目の前に食物の山を見ても、分配さえ出来ないのである。頭目の機能は、とりあえずは分配にあった。群衆は頭目に強権を持たせ、公平な分配を期待する。公平という感覚は、徳と呼ばれていた。東陽県で德のある者といえば、衆目の見るところ、県で文書事務をとっていた陳嬰ちんえいとされていた。陳嬰は、たとえばはいにおける蕭何しょうかのように地元出身の吏員である。しんの国是である法家ほうか主義を県で代表する者は、当然ながらどの県でも県令であった。県令はこのために憎まれていた。この県令の方針に対して、地元出身の吏員が住民の実情にあわせるべくさまざまに方便を用いて緩和させるのだが、その機能を果たしていたのが、沛における蕭何であり、東陽でいえば陳嬰だったのである。
「陳嬰さんに、王になってもらおう」
と、穀物倉を前にして、たれもが口々に叫んだ。陳嬰は驚き、町中、知人の家を転々として逃げまわった。擬態ではなかった。陳嬰は小心なほどに謹直な男で、とてもこの情勢下に、流民の親玉になれるような男ではなく、不適格であることはたれよりも彼自身が知っていた。やがて横丁の知人の家からひきずり出されるようにして県の庁舎の前に立たされ、頭目の役を引き受けさせられた。陳嬰はやむなく穀物は分配した。こういうことは在来。仕事としてれていた。人々の側も、
「陳嬰さんだから不公平はない」
という先入主があるために、怡々いいとして分配された自分の分量に満足し、その満足感が、いよいよ陳嬰を押し立てる気分となってたかまった。この東陽県の場合、父老ふろうささそどの人物がいなかったために、若者どもがすべてを牛耳ぎゅうじり、彼らの代表が、
「陳嬰さん、ぜひ王になってほしい」
と、口説いた。強要というに近かった。そのうち県下の隅々から若者が集まってきて、そのせいは二万にふくれあがり、この大群衆が陳嬰に強要するために、陳嬰のほうがおびえてしまった。
町の中を逃げまわった。ついに、
「老母に相談したい」
と、それを理由にいったん代表たちをさがらせた。儒教は、まだこの時代、強い影響力を持つにいたっていないが、孝を倫理の中核に置くというのは、この大陸においてはたれをも納得させる倫理的風習であった。
陳嬰が、母親に相談すると、
「王になるなど、決して承知するでないぞ」
と、彼女は言った。王とは体裁がいいが、実質は流民の親分で、傘下の流民をたえず食わせ続けるか、せめてその期待を抱かせつづける機能を持つ存在であり、その機能を失えば滅びるか殺されるといおうことを、母親はよく知っていた。
ついでなから、『史記』の作者司馬遷しばせんは、どうやら東陽の町まで行き、口碑や伝承を取材してまわった形跡がある。司馬遷は、この時の母親の言葉を、会話体といっていいような文章で採録している。
今、にわかニ大名ヲ得ルハ、不祥ナリ。属スル所アルニ如カズ。事成ラバ、なお侯ニほうゼラルルヲ得ン事敗ルレバ、以テのがやす
属スル所アルニ如カズ ──独立するよりどこかに所属して武将になっている方が身の安全だよ ── というのは、陳嬰のように包容力の小さい男にとっては、利口な方法だったにちがいない。この東陽県における陳嬰の話は、両面の消息を伝えている。ひとつには、県という地域ぐるみの反乱を起こしても、大将になる人物を探すのがよほど困難であったということであり、いまひとつは、たとえ推戴されても二万という人間を食わせるのはよほどのことだったろうということである。
2019/12/23
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