ほどなく、時子
── 今は二位殿と、余りにも高すぎる位階と権門の奥にあがめられてしまった彼女 ── は局の女房たちに付き添われ、ふたりの姪
に当る姫に、手をひかれて、通って来た。 彼女も、今は、老いた。手をひかれて歩むほど老いた。 ずっと以前に、後白河法皇から 「お子は幾人?」 ろお訊ねをうけたときさえ
「指を折って、よう考えませぬと、お答えもできません」 と言ったほど、たくさんな子を生み、また大勢の孫を見たこの老妻からくらべると、六十の清盛はまだよほど若々しい、 今となっては、何か、釣り合いが取れないような、良人おっと
とその妻であった。 「いつも、おかわりのうて」 「そもじも、お達者か」 他人ではない、夫婦の会話である。 「先さい
つごろは、宋国とやらの貴重なお薬を、福原からお届け給わりまして」 「おう、服の
んでみたか」 「いただきました。そのせいか、夜の咳せき
も、よほど安らかになりました」 「それはようかった。が、重盛には、困ったものだな」 「なにを御心配なさいますか」 「宋医を向けてやったのに、医薬は信ぜず、もっぱら、小松谷の家では、御堂みどう
籠ごも りばかりして、日々夜々、四十八人の女性にょしょう
に、四十八燈の御燈みあか し守をさせておる有様とやら。──
近ごろは、小松殿とは呼ばず、燈籠とうろう
の大臣おとど という名もあるとか」 「それも、よろしいではございませぬか」 「なぜ」 「お父君が、人いちばい、不信心でいらせられますゆえ。──
そして、御法体になられても、一向、なんのお変わりもお見え遊ばしませぬし」 「ばかをいえ」 不用意に出た良人の荒い言葉に、やっと、彼女の胸にも、むかしの夫婦感が疼うず
き出されたものであろう。口をすぼめて、笑いこぼれた。 清盛もなんとなく、つきあいみたいに、苦笑した。 「そもじは、厳島いつくしま
をまだ見てないの。いちど、厳島へも、渡らぬか」 「よう、人の話には、聞きまするが」 「それゆえ、清盛を、不信心などとは申すのだ。ぜひ、いちど詣まい
れ。おととしは、この清盛がおん供して、後白河の君にも詣もう
でられた。・・・・いつかは、そもじの供をして、詣まい
ろうよ」 「ホホホホ。あなたをお供に連れてなら、ぜひ詣りとう思いますが、女こそは、不愍ふびん
な者でございまする」 「はて、なんで」 「あなたのお口から、そのようなお宥いたわ
りを聞くころには、あわれ、たくさんな子を産み終えた女の身は、もう遠い海など渡る力もありませぬ」 「では、せめて福原までは来い。良人が、長い年にわたって、どんな仕事をしたか、諸所、見物させてやろう」 「うれしいことに思いまする。それも見て、ともども、お歓よろこ
びを分けていただきたいのもやまやまですが、わたくしの今は、ただもう、静かにいて、このうえの欲とてはありませぬ。いえ、このうえのお願いには、どうぞもうふたたび、武者への陣触れなどはあそばさないように」 「何も、このたびのこととて、清盛が好んで起こした騒動ではない」 「女には分からぬことばかりです。大納言殿といい、成政殿といい、たれかれなく」 「第一には、仙洞
(法皇) の御心も、解げ
しかねるとは、思わぬか」 「もう、やめましょう」 彼女は、口にするだに、そら恐ろしそうに、ふと黙って ── やがてまた、眸め
に涙をためて言った。 「仙洞にはあなたのように、強くすぐれた御気性におわしますゆえ、兵馬の騒ぎなどにも、驚きにはなりませぬ。そして、あなたがまた、仙洞のうえを超えた御気質でいらっしゃいます。・・・・ですから、おりおりに、こんどのような御不和を明あか
らさまに遊ばしますが、そのたび、人知れぬおん悩みに苦しまれるお方はどなたでしょうか」 「辛つら
いことを、そもじは言う。分かっておるよ」 「お分かりになれば、ありがたいことでございますが」 「そもじの言葉がなくても、近々に参内せんと、案じていたところぞ」 「わたくしも、はやこの年、あなたとて、来年はもう御還暦です。老いの肋骨あばら
に、ふたたび胸当むねあて てを着け、手足に具足を鎧うようなことのないように・・・・女の願いは、それだけしかありません」 「やんわりと、言うたな。はて、おれという人間は、幾歳いくつ
になっても、意見ばかりいわれている男ではある。── 子にも、妻にも」 自嘲じちょう
か、でなければ、この老妻を、良人はもう、子ども扱いに見ているのか。 とにかく、清盛は、そう言って、ひとりで笑った。こういう、まれな閑ひま
も、決して楽しくない時間ではないように。 「のう。・・・・夕餉ゆうげ
を、ともにしようではないか。久しぶりに」 めずらしく、ふたりは、晩の食事も一緒にたべた。 |