〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (五) ──
御 産 の 巻

2013/07/17 (水) えん おう ぎん (二)

ほどなく、時子 ── 今は二位殿と、余りにも高すぎる位階と権門の奥にあがめられてしまった彼女 ── は局の女房たちに付き添われ、ふたりのめい に当る姫に、手をひかれて、通って来た。
彼女も、今は、老いた。手をひかれて歩むほど老いた。
ずっと以前に、後白河法皇から 「お子は幾人?」 ろお訊ねをうけたときさえ 「指を折って、よう考えませぬと、お答えもできません」 と言ったほど、たくさんな子を生み、また大勢の孫を見たこの老妻からくらべると、六十の清盛はまだよほど若々しい、
今となっては、何か、釣り合いが取れないような、良人おっと とその妻であった。
「いつも、おかわりのうて」
「そもじも、お達者か」
他人ではない、夫婦の会話である。
さい つごろは、宋国とやらの貴重なお薬を、福原からお届け給わりまして」
「おう、 んでみたか」
「いただきました。そのせいか、夜のせき も、よほど安らかになりました」
「それはようかった。が、重盛には、困ったものだな」
「なにを御心配なさいますか」
「宋医を向けてやったのに、医薬は信ぜず、もっぱら、小松谷の家では、御堂みどう ごも りばかりして、日々夜々、四十八人の女性にょしょう に、四十八燈の御燈みあか し守をさせておる有様とやら。── 近ごろは、小松殿とは呼ばず、燈籠とうろう大臣おとど という名もあるとか」
「それも、よろしいではございませぬか」
「なぜ」
「お父君が、人いちばい、不信心でいらせられますゆえ。── そして、御法体になられても、一向、なんのお変わりもお見え遊ばしませぬし」
「ばかをいえ」
不用意に出た良人の荒い言葉に、やっと、彼女の胸にも、むかしの夫婦感がうず き出されたものであろう。口をすぼめて、笑いこぼれた。
清盛もなんとなく、つきあいみたいに、苦笑した。
「そもじは、厳島いつくしま をまだ見てないの。いちど、厳島へも、渡らぬか」
「よう、人の話には、聞きまするが」
「それゆえ、清盛を、不信心などとは申すのだ。ぜひ、いちどまい れ。おととしは、この清盛がおん供して、後白河の君にももう でられた。・・・・いつかは、そもじの供をして、まい ろうよ」
「ホホホホ。あなたをお供に連れてなら、ぜひ詣りとう思いますが、女こそは、不愍ふびん な者でございまする」
「はて、なんで」
「あなたのお口から、そのようなおいたわ りを聞くころには、あわれ、たくさんな子を産み終えた女の身は、もう遠い海など渡る力もありませぬ」
「では、せめて福原までは来い。良人が、長い年にわたって、どんな仕事をしたか、諸所、見物させてやろう」
「うれしいことに思いまする。それも見て、ともども、およろこ びを分けていただきたいのもやまやまですが、わたくしの今は、ただもう、静かにいて、このうえの欲とてはありませぬ。いえ、このうえのお願いには、どうぞもうふたたび、武者への陣触れなどはあそばさないように」
「何も、このたびのこととて、清盛が好んで起こした騒動ではない」
「女には分からぬことばかりです。大納言殿といい、成政殿といい、たれかれなく」
「第一には、仙洞 (法皇) の御心も、 しかねるとは、思わぬか」
「もう、やめましょう」
彼女は、口にするだに、そら恐ろしそうに、ふと黙って ── やがてまた、 に涙をためて言った。
「仙洞にはあなたのように、強くすぐれた御気性におわしますゆえ、兵馬の騒ぎなどにも、驚きにはなりませぬ。そして、あなたがまた、仙洞のうえを超えた御気質でいらっしゃいます。・・・・ですから、おりおりに、こんどのような御不和をあか らさまに遊ばしますが、そのたび、人知れぬおん悩みに苦しまれるお方はどなたでしょうか」
つら いことを、そもじは言う。分かっておるよ」
「お分かりになれば、ありがたいことでございますが」
「そもじの言葉がなくても、近々に参内せんと、案じていたところぞ」
「わたくしも、はやこの年、あなたとて、来年はもう御還暦です。老いの肋骨あばら に、ふたたび胸当むねあて てを着け、手足に具足を鎧うようなことのないように・・・・女の願いは、それだけしかありません」
「やんわりと、言うたな。はて、おれという人間は、幾歳いくつ になっても、意見ばかりいわれている男ではある。── 子にも、妻にも」
自嘲じちょう か、でなければ、この老妻を、良人はもう、子ども扱いに見ているのか。
とにかく、清盛は、そう言って、ひとりで笑った。こういう、まれなひま も、決して楽しくない時間ではないように。
「のう。・・・・夕餉ゆうげ を、ともにしようではないか。久しぶりに」
めずらしく、ふたりは、晩の食事も一緒にたべた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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