とまれ、清盛が院參
を遂げて、親しく後白河法皇に謁えつ
し、夜にはいるまで、胸を割って懇談を給わって帰ったことは、彼の予想以上にも、よい結果と、反響をみた。 何よりは、院中の策動家と、そしてその暗さが一掃される機会となったし、法皇にも、こんどばかりは、 (会わす面おもて
もない) と、仰せられぬばかりの態てい
であった。 御気性が勝っておられるだけに、こう、はっきりと、清盛に "歩ぶ
" を取られると、御閉口ぶりも、お気の毒なほどに見られた。 また、これも清盛のすすめによって、撤回を命ぜられたものだが “明雲座主ざす
の復帰” の広報が、五日付づけ
の院宣をもって、叡山に達せられると、山門の大衆は、 「いい分は通った。天日てんじつ
明らか」 「法燈いまだ滅せず ── よ」 「讒者ざんしゃ
の西光は誅ちゅう されれ、一山、戦わずともすんだというもの。同慶同慶」 と、どよめき渡って歓よろこ
んだ。 西八条へは、山門の名をもって、 「このたびのお扱い、座主ざす
以下、拝謝申し上げる」 と、十名の使僧が、礼をのべに来たりした。 こういう政治面ばかりでなく、院と西八条との円満な解決を知ると、洛中の町々の色も甦よみがえ
って、 「やれ、合戦もなくすんだわ」 と、商戸は棚を開き、遠くへ疎開した病人や老幼も、手を引き合って帰って来た。 いや、この安心は、庶民だけのものではない。西八条の第てい
近くに住む二位殿どの (清盛の夫人時子)
にしても、ほっとしたことは、同じであった。 ある朝、その二位殿の侍女が、清盛の蓬よもぎ
の壺つぼ へ、使いに見え、 「つかの間ま
、お目にかからせていただきたいと、仰せられますが」 と、都合を訊たず
ねに来た。 「よいとも」 清盛は、使いへ言わせて後、ふと、 (思えば、おれにも、二十歳はたち
の頃からの、古女房があったわえ) と、心のうちで、正室への余りな無沙汰に、苦笑を禁じ得なかった。 |