〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (五) ──
御 産 の 巻

2013/07/16 (火) 「 教 訓 」 の 事 (六)

何よりも明確なのは、公卿日記の類が、みな、この大事件の顛末てんまつ を、詳密に記録しているのに、清盛が法皇を幽閉し奉ろうとしたなどとは、たれも言っていないことである。それらしい一字一句も見当たらない。
反対に、中山忠親の日記 「山槐記さんかいき 」 などには、

“── 事件以来、院中の奉仕者が、みな難を恐れ、たれも御所へ出仕しない。清盛は、それを聞いて、大いに怒った”
というような記事がある。
「山槐記」 だけでなく、九条兼実の 「玉葉」 にもまた、
“── 治承元、六月三日、朝ノ間、雨フル。京中騒動シ、上下畏怖ヲナスヲ以テ、院中ニ参入ノ人無キノ由、禅門 (清盛) 以テ大イニ怒ラル”

と、見える。
これだけでも清盛が、鎧のうえに、法衣ころも を着込んだの、重盛が諌言かんげん したのということは、根拠のない作り話であることがわかる。
では、なぜ清盛は、京中の上下が畏怖いふ するのもよそに、兵仗へいじょう を帯して、院參したろうか。おそらくは、
「君との御直談をろげん」
と、いうだけのものであったろう。そしてまた、
「院中のしれ者を一掃して、君辺を明るくし奉らん」
と、いう意志だったに違いない。
もちろん、このさいのこととして、平日の院參とちがい、多分に、示威を含んでいたろうことは想像される。常ならぬ場合、武装は武人の正服である ── ぐらいな詭弁きべん は彼も用いたろう。
ただ、彼の院參によって、たちどころに、院中が明るくなったのは事実である。一瞬の震駭しんがい もあったろうが、後白河法皇には、彼の顔を見られて、かえって、ほっと、なされたことと思われる。
この日、法皇のおん名をもって、謀臣たちすべてへの解官げかん の令がくだ され、まだ、そこらにコソコソしていた与類の下官たちも、みな、解職になった。
さらには、叡山の明雲座主にたいしても、
  “先令、伊豆配流ノ沙汰、赦免セラル”
との院旨を、発せられた。
こういう根本的な政令は、院と清盛との、うち溶けた御対面談がなくて、行われるはずはない。
それにしても、雲に す龍のごとき君が、福原から出て来た虎と、どんなうそぶ き合いのうちに、それらの内談を進めたろうか。
さしも、おん強気で、知略を好ませ給う法皇も、こんどは少しお りになったことであろうし、大体、都を留守がちにして、宋国だの四海方面ばかりに、事業の間口を拡げすぎていた清盛も、
「これはちと、この方の政治にも少し心を入れなければ」
と、戒心を新たにしたことと考えられる。
まず、それくらいな想像までは、たいした誤りもないと思う。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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