と、見える。 これだけでも清盛が、鎧のうえに、法衣
を着込んだの、重盛が諌言かんげん
したのということは、根拠のない作り話であることがわかる。 では、なぜ清盛は、京中の上下が畏怖いふ
するのもよそに、兵仗へいじょう
を帯して、院參したろうか。おそらくは、 「君との御直談をろげん」 と、いうだけのものであったろう。そしてまた、 「院中のしれ者を一掃して、君辺を明るくし奉らん」 と、いう意志だったに違いない。 もちろん、このさいのこととして、平日の院參とちがい、多分に、示威を含んでいたろうことは想像される。常ならぬ場合、武装は武人の正服である
── ぐらいな詭弁きべん は彼も用いたろう。 ただ、彼の院參によって、たちどころに、院中が明るくなったのは事実である。一瞬の震駭しんがい
もあったろうが、後白河法皇には、彼の顔を見られて、かえって、ほっと、なされたことと思われる。 この日、法皇のおん名をもって、謀臣たちすべてへの解官げかん
の令が降くだ され、まだ、そこらにコソコソしていた与類の下官たちも、みな、解職になった。 さらには、叡山の明雲座主にたいしても、 “先令、伊豆配流ノ沙汰、赦免セラル” との院旨を、発せられた。 こういう根本的な政令は、院と清盛との、うち溶けた御対面談がなくて、行われるはずはない。 それにしても、雲に臥ふ
す龍のごとき君が、福原から出て来た虎と、どんな嘯うそぶ
き合いのうちに、それらの内談を進めたろうか。 さしも、おん強気で、知略を好ませ給う法皇も、こんどは少しお懲こ
りになったことであろうし、大体、都を留守がちにして、宋国だの四海方面ばかりに、事業の間口を拡げすぎていた清盛も、 「これはちと、この方の政治にも少し心を入れなければ」 と、戒心を新たにしたことと考えられる。 まず、それくらいな想像までは、たいした誤りもないと思う。 |