さて。 ここまで、書いてくると、どうしても、この書と古典平家物語との差や解釈の相違に、一言さしはさまないわけにはゆかない。 なぜなら、古典平家物語では、清盛が、謀叛人の成敗だけでは飽き足らず、法皇のお体をも、他の場所へお遷
しせんと、出陣にかかったものとなっている。 そして、清盛の放言として、 (── 大方おおかた
はこの入道、院方いんがた の奉公、思い切ったり) と、いわせているし、また、 (──
定めて、北面の者どもが中より、矢をも一つ射い
んずらん。その用意せよと、侍どもにも、申し触るべし) と、あって、君臣の仲も断ち切り、ひと合戦を気構えたものと書かれてある。そしてそれが、今日までの清盛像を表彰する史上の美談としても長く伝えられても来た。 つまり古典平家の眼目と言われる
「教訓」 の文章が、それである。それはそれで、佳い話だが、ほんとではない。事実の清盛や重盛ではない。 その 「教訓」 のくだりは、以前からも学界に、否定説があるにはあった。しかし、国民教育の見地から
「そのままにしておいた方が」 という倫理観に支持されて来たのである。だが、今日ではもう教育の資料にもならない。まして、史実でないものをである。可能な限り、真実を探り、正しく書き、正しい清盛と重盛の対比を見、父は父なりに、子は子なりに、見直すべきではあるまいか。 ──
従って、古典平家にあるように、清盛が、重盛の来訪にあわてて、鎧の上に、法衣ころも
を着込み、襟元からそれがチラチラ見えるのをかき合わせながら、子の重盛に、さんざんに、教訓されたなどというのは、根もないことと、いうしかない。 常識からいっても、一族列座の中で、自分ひとりが古今の学や道徳を能弁に誇り立てて、父親の清盛が、あぶら汗を流すまで、ぎゅうぎゅう痛めつけたりなどしたとは、考えられない。そんな高慢くさい親不孝者が、どうして、忠臣孝子の代表みたいに讃たた
えられて来たのか、ふしぎである。 これでは、重盛も、かわいそうだ。清盛には、なお気の毒である。以下、すこし史料を漁あさ
って、当時の記録に照らしてみよう。 |