いよいよ謀叛人一同の処置が決定され、その手続きが運ばれているらしい。 新大納言成親の身は、備前
の児島へ流刑と言い渡され、即夜、難波次郎経遠の護衛で、淀から大物だいもつ
ノ浦へ、箱船で送られて行った。 近江中将入道蓮浄は、佐渡ヶ島へ。 式部大輔正綱は、播磨はりま
の国へ。 宗判官信房は、阿波あわ
へ。 山城守基兼は、伯耆ほうき
へ。 新平判官資行は、美作みまさか
の国へと。 それぞれ護送の武士が付き、あるいは箱輿はこごし
で、あるいは裸馬の背で、まだ明けぬ空の都をあとに、北や西へ、陸続と追っ立てられた。 九条兼実の日記 「玉葉」 によると、二日の夜から三日にかけては “小雨降る
──” とある。 濡れそぼつ武者の群や松明たいまつ
のいぶりに、この夜の混雑と、流人となって送られて行く人びとの打ち悄しお
れた姿も、眼に見えるようである。 さらに、あわれであったのは、法勝寺の俊寛僧都と、平判官康頼、それに丹波少将成経の三人へなされた宣告で、 “──
薩摩潟サツマガタ 、鬼界キカイ
ヶ島へ遠流オンル ノ事” と、言い渡された。 人びとは、ひとごとながら、そのきびしさに、驚いて、 「え、鬼界ヶ島」 「鬼が住む所かよ」 「いや、薩摩潟とある。永劫とこしなえ
に、火の燃ゆる岩ばかりの島とかいうぞ」 と、肝きも
をすくめ合った。 明くれば三日、清盛は、何思ったか、起き抜けに、ゆゆしく、身を鎧よろ
って、常の居間を出、中門廊のほとりに、将座を設けさせて、出陣でもするように、諸将のさしずに当っていた。 装いの、好みを見ると。 赤地錦あかじにしき
の直垂ひたたれ に、黒糸威しの腹巻、銀の金かな
ものを打った胸板をつけ、白金白金しろがね
の蛭巻ひるまき をした小薙刀こなぎなた
を、うしろに立てていたとある。 そして、語気はいつもより静かに聞こえた。 「貞能さだよし
」 と、呼び、筑後守貞能の姿を見 ── 「前夜、申しつけおいた通り、これより自身、法住寺殿にまかり、君への拝顔をとげ、積年 の御隔意も、また、このたびの事端の始末なども、悉皆しっかい
、御熟談を果しまいらせんと、思うにてあるぞ。── 今日こそは、院中の妖気ようき
を一掃して立ち帰らんず。・・・・貞能、支度は」 と、言った。 「さん候う。いつにても」 「さらば、馬に鞍くら
を置かせよ」 清盛は起こって、中門を出た。 |