車は、まもなく、六波羅総門の近くで止まった。 教盛の居宅は、総門のすぐ隣にあった。そこで、教盛のことを
「門脇 どの」 と俗称したり、
「門脇の宰相さいしょう 」 とも人は呼んでいた。 彼の新妻は、みごもっていた、近いうちに、産屋うぶや
にはいる身なので、里親の館へ帰っている。その若い北ノ方も、六条という成政の乳人めのと
も、少将の姿を見ると、取りすがって、離さなかった。 けれど、少将が三日ほどを、院中に潜んでいたことは、西八条へも分かっていた。 「時遅れては、よろしくない。いまはただ皆の歎なげ
きを聞こえ上げて、相国のおん情けにすがるほかない」 と、舅しゅうと
の宰相教盛は、車の後しりえ に、少将を乗せ、力なく、西八条へ自訴して出た。 しかし、ひとたび、西八条の門内に入ると、あまたな武者は、口々に、 「仰せに候えば、少将は、あれに居給え」 二人を引き離し、ひとり少将だけを、横門の侍小屋へ、取り籠めてしまった。 教盛だけは、通るのを許されたが、控えに居ても、入道相国は、出て来なかった。 そこで、太夫判官たいふのほうがん
李貞すえさだ を通して、兄なる入道へ、こう伝えてもらった。 「まことに、よしない者と縁組して、今は悔いにたえませんが、もう、少将へ嫁がせたむすめも、妊娠みごも
っておりますし、一家は悲泣の底に投げ込まれておりまする。どうか、この教盛にめんじて、少将の身は、それがしに、お預けくださいますまいか。教盛の一家が、一生しょう
のおん願いにござりまする」 ── 通りを、李貞が、清盛の前へ来て、披露すると、清盛は、脇息きょうそく
を前に抱いて、ややしばらく、うつ向きかげんに、黙っていた。 何か、胸苦しげな格好である。それは自分で自分の手足の疾患を手術しようとする苦痛と闘っている姿に近い。
弟の教盛ときては、洟はな
たらし時代から、経盛に次いで、気のよいやつである。それが、こんなにまで嘆きをこめて、自分へ哀訴を持ち込んだことはない。 (むすめ可愛さの一念からであろう) とは、充分に察しられる。 けれど、近親という考えになれば姪婿めいむこ
の少将よりも、大納言成親とは、もっと深い二重三重の姻戚いんせき
になる。── あの重盛の嘆願をさえ、こんどは退しりぞ
けた清盛である。 容易に、返辞をしそうもない。 一幹かん
の喬木きょうぼく が、時ならぬ暴風雨に揺れ揉まれるとき、枝葉しよう
は叫び、葉は飛散し、梢は折られたりするが、傷むのは、枝葉ではなく、木の生命をもち耐えている幹その物である。この場合の清盛が、それに似ていた。 彼は、ひとごとを裁いていたのではない。彼は彼自身を裁いている。 成親、成経父子ばかりでなく、こんどの鹿ヶ谷連座の面々を、表ひょう
にしてみると、近いと遠いの差こそあれ、一族のたれかと、縁故のつながっていない者は、ほとんど少ない。 いわば、平家覆滅の陰謀は、平家の外のものではなく、平家内部の出来事と、彼は考えているのである。木も、余りに樹齢がたつと、虫が蝕く
う。虫が蝕った根や枝は、これを切って除くもまた仕方がないと思う。 「はて、宰相がまた、例の世間知らずで、事もなげにいい越すわよ」 清盛は、やがて、もの憂げに、李貞へ向かって、返辞をさせた。 「──
思うてもみよ、もし、成親などの陰謀が、ふと、その望みを遂げた場合は、門脇の宰相とて、今日、そんな呑気なことを言ってはおられなかったろう。ひまつぶしは、すなといえ」 控えに、じっと待っていた教盛は、李貞から、そのすげない答えを聞くと、 「ぜひもございません」 と、思い断った容子で、兄の居室の方へ向かって、はるかに、両手をつかえた。 「──
思えば、教盛のりもり こそは、幼少から、ただ兄君の驥尾きび
に付し、能のう もないのに、参議の栄職など、けがして来ました。せめて、大事の秋とき
には、老いこそすれ、子どもらの通盛みちもり
、教経のりつね なんどとともに、一方の防ぎにも立ち参らせんと、そればかりを愚者の一念としておりました。しかし、少将が身の預りも、み許しなきは、必定、教盛も頼みにならぬ者と、はや、おん見捨てかと思われまする。・・・・このうえは、何を望みに、武門の端につらなりましょうや。高野こうや
か粉河こかわ の奥にでも籠って、出家を遂げ候わん。とかく、お詫びのことばもございませぬ」 李貞は、奥へ急いで、またその通りを、」早口に、清盛へ告げた。 「な、なに、教盛が、思い断った態てい
で、出家を遂げると。・・・・ば、ばかな」 あわてたのは、清盛である。 われを忘れて、起ちかけたが、さすがに、座を保って、李貞へ、こう再度の命を伝えさせた。 「早く戻って、つまらぬ真似はするなと、宰相に言え。そしてだ・・・・。そして、少将が身は、ともかく預け置こうと、申してやれ。・・・・ともかくだぞ、よろしいか」
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