洛中にわたる非常警戒と、逮捕騒ぎは、まもなく終熄
した。 成親、成経父子を初め、近江中将蓮浄、山城守基兼、平判官康頼やすより
、法勝寺の僧都そうず
俊寛など
── 鹿ヶ谷に連座した者は、ひとりとして、検挙の手から余されてはいない。 あとは、なお、法住寺殿でん
の院中に、成親や西光法師の一類と見られる少数な下官が残されているだけである。 そして。 西光だけは、先に、朱雀の辻で、首を斬られ、もう処刑ずみだが、残余の公卿くげ
囚人めしうど
たちの刑はどうするか。──
それがまだ懸案だった。 すると、六月二日の夕。 叡山の僧徒が、こぞって、一乗寺下がり松の辺まで、大挙、押し出して来たということが伝わって、またぞろ、洛中は物騒がしい風説にくるまれた。 ところが、その風説の中を、叡山大衆の代表と称して、五名の大法師が、西八条を訪れ、 「相国の御覧に供えられたい」 と、一書を捧呈ほうてい
して、立ち去った。 内容は
── 清盛の果断を讃たた
え、また、明雲みょううん
座主を讒言ざんげん
した西光法師の処刑をよろこび、終わりに 「なんぞ、騒乱の兆しでも見えたら、一方の守りに当らんと、下がり松まで、大衆下山に及びたるも、その憂いもなければ、今夕、帰山仕るべし」
と、結んであった。 「使いの法師に、馳走ちそう
してやれ」 清盛は言ったが、「いえ、── 御披露をと、言い残して、ただちに立ち帰りました」 という侍臣の答えに、 「そうか」 と、のみつぶやいて、清盛は、手筥てばこ
の内に、書面を収めた。 そのころ、彼の居室には、しきりに、武将たちが出入りし、それぞれ何かの命を受けている気配だった。
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