〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (五) ──
御 産 の 巻

2013/07/14 (日) 小 松 重 盛 (四)

ふしぎな人物だ。ひとたび、らん になれば、衆生の無数な生命も財も、修羅のにえ となるのは、知れきっている。それなのに二度まで乱をたくら み、そして、いざ自分一個の危険となれば、その大望も、簡単にほうり捨ててしまう。命欲しさに、泣きもがく、見得も外聞もなく、未練そうに泣くのである。
(困ったお人ではある)
重盛も、そう思って、しげしげと、成親の女々めめ しさへ、眼を落としたことではあろう。── けれど、切るに切れない縁者である。また人情、つい、身びいきにも かれ、あわれとも、見ずにいられなかった。
「ま・・・・お心をたい らかにおわせられい。父、相国へは、重盛からも、ただ今、おなだ め申し上げておいた。よも、あなたのお命までは召されもすまい」
じょう は持っても、長くは居るに耐えない。重盛は、そう慰めて、板縁いたえん へ出て来た。
すると、ここの番をして、中の壺に居た難波次郎と、瀬尾兼康の二人が、重盛の影を見て、はっと庭上にうずくまった。
重盛は、その二人を眼の隅から冷やかに見ながら、気づかない顔をして、
「さても今朝方、経遠 つねとお (難波次郎のこと) とやら、兼康とやら申す者どもが、あの大納言の君へ、拷問 ごうもん に及び、つろ う当り奉りしとか、聞いたが、この重盛もあるものを、はばかりもなき奴輩やつばら かな。情けを知らぬ田舎侍は、みな、こうぞ。返す返すもかい なれ」
と、つば を吐くように言って去った。
ほかならぬ小松殿に、うらみがましく、そう言われたので、難波次郎も、瀬尾太郎兼康も、恐れわなないていたきりであった。
やがて重盛は、もとの中門廊から、車に乗った。
そのさいも、彼の帰館を見送りに立った筑後守貞能が、
「このような大事な時に、なぜ、常のおん供ばかりを召され、一人の軍兵も、警固にお連れなさいませぬか」
と、たず ねたところ、重盛は、これにも、不機嫌な返辞をした。
「およそ、大事とは、天下のことをこそ言え、かような私事わたくしごと の騒ぎが、なんの大事か」
兵仗へいじょうたい していた武士たちは、この一言にみな、立ちそぞろいて、重盛の牛車が遠く正門の外へ去るまで、声を出す者もなかったという。
何しても、小松殿という名は、清盛に次いで、恐れられていたものらしい。
いや、ある意味では、清盛以上かも知れなかった。清盛にはなお抜けているところもあり、ごま化し得る面もある。── 重盛には、そんな反面もすきもない。かりそめにも、愚者とは交響しあわない賢者けんじゃ であった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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