〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (五) ──
御 産 の 巻

2013/07/09 (火) 西さい こう ら れ (二)

西光法師の宿には、まだ手がまわっていなかった。
外の騒々しさに、
「何事かよ」
と、家人けにん を見せにやって、その返辞を聞くと、
「ひと事かは。わが身の上も」
と、まっさお になって、うろたえた。
もともとこの男は、むかし少納言信西しんぜい の朗従勤めをしていたこともあって、ただの法師公卿とはちがい、どこか胆太きもぶと いところがあった。
こと 露見ろけん のうえは、よも、辻のかために、抜かりはあるまい。いっそ、身をすててこそよ」
きっと、はら をすえたものらしい。法住寺殿ほうじゅうじでん の、院の御所へ駆け込もう。法皇のお袖の蔭に隠れ込むこそ、最上ののがれ場所とばかり、やにわに、馬を引き出して、ムチを打って、七条和口をさして、駆け出した。
すると、その途中で、一隊の六波羅の兵馬と、運悪く、出会ってしまった。
「や、や、南無三」
道を変えようとする間もなかった。わらわらと前後へ駆けて来た武者たちは、
「ござんなれ、西光」
と武士は、こま のあぶみ、口輪を、抑えてしまった。
「おりもよし、西八条殿より召さるるによって、迎えに来た途中ぞ。いで、参られよ」
「やあ、しうは、ならん」 ── 西光は、馬上から虚勢を示し、
「これはただ今、そう すべき公用のあって、院の御所へ急ぎまかる道なるぞ。── 西八条殿へは、後刻に参らめ」
「ばかを申せ。そのような悠著なお召しではないわ」
下臈げろう の身をもって、何をいう。院へそう し参らすべき急用を阻むなど、不敬であろうぞ」
「にくい公卿坊主めが、この騒ぎを、眼に見てから、何を奏するつもりか。── えい、面倒な」
あぶみを、つかんで、いきなり馬上の西k光を、駒の向こう側へ、ひっくりかえ した。
「それっ、しば り上げて、もう一度、馬の背へ積み直せ」
土ほこりと、牛の糞を、体中にまぶされたまま、西光は、がんじがらめにされ、やがてこれも西八条へ、追い立てられた。
「西光こそは、事の元凶なれ、自身、口を開かせてくりょうず。坪の内へひきすえい」
清盛は、この騒ぎの中に一睡し、昼寝の寝起きに、水飯すいはん を食べ、余りの暑さに、よろい も脱ぎ胴巻だけの大口袴おおぐちばかま にかえていたところだった。
ずかと、大床に出て来て、
「おのれよな、西光とは」
と、にらみつけた。
西光もまた、 いで、にらみ返した。
大廂おおひさし の陽かげが、彼のひざを、斜めにかげ らせ、頭と肩さきだけに、かんかんと陽が照り付けていた。
頭の毛穴は汗を吹き、ほこりが滲み、不出来ななし の肌みたいである。こめかみには、この男の世才を現す青筋を太く見せ、中高な鼻ばしらも、何か戦闘的で、大きな口のゆがみとともに、不敵なせせら笑いをすら描いている。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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