〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (五) ──
御 産 の 巻

2013/07/08 (月) 鹿 ヶ 谷 始 末 (二)

「おん前に」
資成の姿が、遠くに、両手をつかえたのを見て、清盛は、言葉を改めた。
「ふと、うち忘れていたが、急いで、院の御所へ、ひとむち あてよ」
清盛の口から、院 ── という一語を聞くと、詰座つめざ の人々の顔が、はっと、引き緊まった。
雨か風か、もっと大きな異変か、たれもが、雲行きをうらな うような眼で、畳台じょうだい の上の人を仰ぐのだった。
清盛は、自然な感情を、どうしようもないように、こう命じた。
早暁そうぎょう なれば、院中にも、宿直とのい のほかはおるまい。内なる大膳太夫だいぜんだいぶ 信成のぶなり を呼び出して、信成へ、きっと、告げ渡せ。── 新大納言成親卿以下、近習の人びと、わが一門を亡ぼして、天下を乱さんとする企てあり。謀叛むほんやから 、いちいちからめ捕って、ひとりも余さず処断つかまつり候うべし。── 君にはそれを、知ろし召されぬてい にてお せと。・・・・よいか、四方、騒々そうぞう しく、尋ね沙汰つかまつらんも、おん驚きなく、ただ、ひと嵐の ぎるわと、両三日は、殿深とのふか くにおわせ給えと」
「はっ。いい捨てに」
「いや、奏聞に及んで後の御気配みけはい やいかが。よううかごうてまいれ」
「心得申して候う」
資成は、廊を、走り去った。
入れ違いに、武者が、
「池殿、ただ今、御参陣。── 中門の内にて、大納言時忠様と、何かお話中にございまする」
と、知らせて来た・。
清盛は、また、経盛へ退出をうながした。
「人は、続々来る。武者骨にもあらぬお許までが、いるに及ばぬわ。むしろ、内裏へ参内して、つねの如く、お許が、静かにおれば、それだけ、宮門の内も、静かになろう」
「ごもっともです。ではわたくしは」
経盛は、素直に退出した。
ある程度の犠牲は見ないわけにはゆくまいと思われたし、兄が、法皇に対しては、依然、君とあがめて、陰謀の盟主という対象としてはしていない容子に、いささか胸をやすめて帰った。
この二人もまだ、院中の陰謀組みなるものが、どの程度に、実行力と計画を持ち、また、どんな範囲なものかを、多分に、疑っているふうだった。
「もし、多田行綱などの申す者の密訴が、讒者ざんしゃ の虚構であった場合は」
疑うなら、むしろ、行綱という人物ではないか、と言ったふうな口吻こうふん でもある。
清盛は、それをわら って、
「時忠も、頼盛も、長く院中に仕えていた過去がある。法皇のお側にもかしず き参らせたことのある御辺たちだ。それだけに、なお分かるまい。おれすら、よもやと、驚きに胸打たれたほどだからの」
と、言った。それだけで、あとは二人の懐疑を、とりあげもしない。また、意中の断に、迷いも見せない清盛であった。
そこへ、安倍資成が、息ぜわしく、戻って来た。
資成の復命によると。
後白河法皇には、早暁そうぎょう御簾ぎょれん に、大膳太夫信成からの、奏聞をおうけになって、
「ああ、早、そのいなことが、もれたるか、こは、なんとせん」
とばかり、夢魂のお驚きに打たれ、失神しておしまいになったように、茫然ぼうぜん 、ほかのお言葉は、もれ聞こえなかったという。
「みよ、行綱の密訴は、虚構ではあるまい。よもやとのみ、構えていたら、一門いかで安穏あんのん にあるべき」
清盛は、二人へ向かって、きっと、言いきった上、さらに口忙くちせわ しく、
筑後守ちくごのかみ 貞能さだよし やある。── 飛騨守景家を呼べ、松浦まつらの 太郎重俊しげとし もこれへ」
と、次々に、侍大将の名を呼び立て、それぞれの配下へ二百騎、三百騎とさずけて、この朝、洛内各所にわたっての総検挙を開始した。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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