「おん前に」 資成の姿が、遠くに、両手をつかえたのを見て、清盛は、言葉を改めた。 「ふと、うち忘れていたが、急いで、院の御所へ、ひと鞭
あてよ」 清盛の口から、院 ── という一語を聞くと、詰座つめざ
の人々の顔が、はっと、引き緊まった。 雨か風か、もっと大きな異変か、たれもが、雲行きを卜うらな
うような眼で、畳台じょうだい
の上の人を仰ぐのだった。 清盛は、自然な感情を、どうしようもないように、こう命じた。 「早暁そうぎょう
なれば、院中にも、宿直とのい
のほかはおるまい。内なる大膳太夫だいぜんだいぶ
信成のぶなり を呼び出して、信成へ、きっと、告げ渡せ。──
新大納言成親卿以下、近習の人びと、わが一門を亡ぼして、天下を乱さんとする企てあり。謀叛むほん
の輩やから 、いちいちからめ捕って、ひとりも余さず処断つかまつり候うべし。──
君にはそれを、知ろし召されぬ態てい
にてお在わ せと。・・・・よいか、四方、騒々そうぞう
しく、尋ね沙汰つかまつらんも、おん驚きなく、ただ、ひと嵐の過よ
ぎるわと、両三日は、殿深とのふか
くにおわせ給えと」 「はっ。いい捨てに」 「いや、奏聞に及んで後の御気配みけはい
やいかが。よううかごうてまいれ」 「心得申して候う」 資成は、廊を、走り去った。 入れ違いに、武者が、 「池殿、ただ今、御参陣。──
中門の内にて、大納言時忠様と、何かお話中にございまする」 と、知らせて来た・。 清盛は、また、経盛へ退出をうながした。 「人は、続々来る。武者骨にもあらぬお許までが、いるに及ばぬわ。むしろ、内裏へ参内して、つねの如く、お許が、静かにおれば、それだけ、宮門の内も、静かになろう」 「ごもっともです。ではわたくしは」 経盛は、素直に退出した。 ある程度の犠牲は見ないわけにはゆくまいと思われたし、兄が、法皇に対しては、依然、君とあがめて、陰謀の盟主という対象としてはしていない容子に、いささか胸をやすめて帰った。 この二人もまだ、院中の陰謀組みなるものが、どの程度に、実行力と計画を持ち、また、どんな範囲なものかを、多分に、疑っているふうだった。 「もし、多田行綱などの申す者の密訴が、讒者ざんしゃ
の虚構であった場合は」 疑うなら、むしろ、行綱という人物ではないか、と言ったふうな口吻こうふん
でもある。 清盛は、それを嘲わら
って、 「時忠も、頼盛も、長く院中に仕えていた過去がある。法皇のお側にも侍かしず
き参らせたことのある御辺たちだ。それだけに、なお分かるまい。おれすら、よもやと、驚きに胸打たれたほどだからの」 と、言った。それだけで、あとは二人の懐疑を、とりあげもしない。また、意中の断に、迷いも見せない清盛であった。 そこへ、安倍資成が、息ぜわしく、戻って来た。 資成の復命によると。 後白河法皇には、早暁そうぎょう
の御簾ぎょれん に、大膳太夫信成からの、奏聞をおうけになって、 「ああ、早、そのいなことが、もれたるか、こは、なんとせん」 とばかり、夢魂のお驚きに打たれ、失神しておしまいになったように、茫然ぼうぜん
、ほかのお言葉は、もれ聞こえなかったという。 「みよ、行綱の密訴は、虚構ではあるまい。よもやとのみ、構えていたら、一門いかで安穏あんのん
にあるべき」 清盛は、二人へ向かって、きっと、言いきった上、さらに口忙くちせわ
しく、 「筑後守ちくごのかみ
貞能さだよし やある。── 飛騨守景家を呼べ、松浦まつらの
太郎重俊しげとし もこれへ」 と、次々に、侍大将の名を呼び立て、それぞれの配下へ二百騎、三百騎とさずけて、この朝、洛内各所にわたっての総検挙を開始した。
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