〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (五) ──
御 産 の 巻

2013/07/07 (日) 大 野 の け (二)

「・・・・。蔵人の行綱とは、御辺か」
「相国でいらせられますか」
「余事はおこう、ただ事ならぬ仙洞のおんたくら みとは、何か」
「・・・・じつは」
「御辺は、のどかわ かせておるな」
「昨夜は、馬上、鹿ヶ谷からこれまで、夜を通して、馳せ参りましたが故」
「なぜ、かゆ でも食うて、ゆるりと来ぬ。──が、まあ先に聞こう。貞能、この男に、水をやれい、水でも飲んで、よく落ち着いて、物な申せ」
しかし、事実は、清盛の胸の方が、水を飲みたいほど、煮えくり返っていた。
貞能から水をもらって、飲み干すと、行綱は、やっと落ち着いた容子だった。入道相国という人間にふれないうちの畏怖も手伝っていたらしい。ようやく、ひとみ も、清盛を見た。
「すでに、院中の密謀は、昨日今日の儀ではありませぬが ──」
そう、前提して、行綱は、自分の知る限りの秘密を、そこで、吐いた。
じっと、何かに耐えているように、それを聞いている清盛は、一塊いっかいいわお にも似ていた。外を打つ波ではなく、内に打ち返す波に耐えている巌だった。
しかし、眸の水晶体には、くわっと、あきらかに、激血が燃え、それが極まると、湯のような涙となった。行綱が、気づいて、はっと、口ごもると、
「なに、なに。ものは明らかに申せ。いい濁さずに、はっきり言え」
すでに、語気にも、いら だちを現し、そしていつの間にか、清盛の満面、血の色を退いて、ただ眼瞼まぶた から、こめかみに、青味がみえるだけだった。
「行綱。それに、相違ないな」
「相違ございませぬ」
「鹿ヶ谷へ寄り合うたやから の名を、もういちど申せ。── 筑後、それにて、書きとどめろ」
ようやく、呼吸は、肩もとにしていた。よわい 、六十である。余りな感情の波には、さすが、平然とはいられないらしい。
念のため、もう一度、 くが、御軍勢のお催しは、たしかに、山門攻めではないのだな。── 先ごろ、明雲座主への御処置に山法師どもが、反逆をなしたと聞くが、それに対しての山攻めではないのか」
「ちがいまする。・・・・まったく、それは、擬勢ぎせい にすぎませぬ」
「擬勢とな」
「あらぬ方へ、人目を避けさせ、そのきょ に、六波羅、西八条へ せんという、御詭計ごきけい にござりまする」
「よしっ」
たれへともなく、清盛は言った。いや、 えたと言った方がふさわしい。
まさに、虎眉こび は、風を思っているふうだった。ぎらと、筑後貞能の方を見、
「どうして、京中には、この清盛を憎み給うおん方をあやなして、平家をかたむ けんとするやから が、いつのまにか、充ち満ちてこそあんなれ。いつかは、きっと、性懲しょうこ りのつくよう、痛き目にあわせんと思うていたおりにもあるぞや。── 筑後、侍どもへの、触れをいそげ」
「やっ。お軍勢を」
「いうまでもない。── いま、福原に る一族は」
「右大将宗盛卿」
「うむ、宗盛に早沙汰立てい。次いでは」
「三位中将知盛卿。頭中将とうのちゅうじょう 重衡しげひら 卿。── 左馬頭行盛殿もおられましょうか」
「頼盛は」
「池殿には、都でいらせられまする」
「いないか」
何か別な感情が、彼の頭をふとかすめたが、
「すぐ、みなに、集まれと触れい。── その間にも、上洛の用意を急げや。福原のあとには、人なくともよいぞ。清盛が前後に陣をなして、こぞって、おれの供をして来い」
清盛は、それきり行綱へ眼もくれなかった。彼の姿は、荒い跫音あしおと とともに、奥へかくれてしまい、なお、雪ノ御所の坪々や殿裡でんりふるrt> い揺るがすような声だけが、遠くに聞こえた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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