二十七日の午
近くである。 清盛は、福原の雪ノ御所にいた。 つねの如く、多くの家臣に侍座され、大宰府から来た原田直方の報告を聞いていた。 ── 近く大輪田の港に入る宋船に、宋政府の役人が乗っている。べつに、国交上の公使ではないが、日本の実情を観み
たいという。それを、許したものかどうか、また、歓待をどうするか、などの協議らしい。 そこへ、侍所さむらいどころ
のいつもの取次と違って、筑後守貞能さだよし
が、自身で、 「はばかりあるおりとは存じますが、ちと、にわかにお耳へ達したい儀がありますが」 と、広縁の端から、わざと、内へは入らずに、遠くから、取次いだ。 「おれにか」 清盛がこう言ったのも、わざとである。その間に、筑後の眼を、読んでいる。 筑後守貞能さだよし
は、清盛が若年のとき、「じじ、じじ」 と呼んで甘えたあの木工助もくのすけ
家貞の息子である。今では、その貞能がもうじじの年にもなりかけていた。じじへの、恩返しのつもりで、また、よい侍でもあったので、筑後守を襲わせ、侍頭として、重用していた。いわば、父子二代の、清盛の腹心だった。 「──
何事ぞ、筑後」 清盛は席を捨てて、みずから、ほかの室へ移って来た。 貞能は、身も、声も低めた。 「多田の庄の蔵人行綱と申す者。ただ今、早馬打って、一大事を訴え出でてまいりました」 行綱とは、大和源氏の、あれか」 「はい、摂津守が子」 「それが、何を申し入れて来たと」 「都における御謀叛ごむほん
を」 「御謀叛とは。・・・・はて、御謀叛というからには、仙洞せんとう
のおん動きをさしまいらすか」 はっ。── 行綱の証言によりますれば」 言いにくそうに、筑後は言った。額ひたい
に、汗がにじみ出ている。 清盛の容子ようす
もすぐ変った。感情はつよいが、日常、めったに動どう
じる彼ではない。が、後白河法皇のおんことちえば、喜びにも、怒りにも、すぐ、こう現れるのが不思議なほどだった。── 何か、大きな圧迫を、言葉をかえて言えば、恐るべき強敵にもつ畏怖感いふかん
を、つねに法皇に抱いている彼らしく見える。 「筑後」 「は」 「そちは、行綱を、よく質ただ
したのか」 「いえ、深くは、問いもしませぬ。また、申しもいたしませぬ。── 余りに、そら恐ろしき秘事なれば、ただ直々じきじき
にと」 「よし、庭へひけい」 「ここのお坪へ」 「いや、ここはまずい。おれから、中門廊の広床へ出よう。外の遠くを、武者どもにかこませ、調べのすむまで、何者も近づけるな」 いちど、清盛は、もとの座へ返った。そして、まもなく、中門廊を通り、行綱を待たせておいた広床へ姿を見せた。
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