〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (五) ──
御 産 の 巻

2013/07/06 (土) お ん さる がく (三)

やがて、主の俊寛は、ころを見て、
「山荘のことです。なんの調いもありませんが、粗餐そさん でも」
と、密議の終わったしお に、座景を変えた。
今日ばかりはたれも、我を忘れて、討議に熱したあとなので、高坏たかつき折敷おしき を前にすえられると、にわかに、空腹を思い出したものらしい。
そのせいもあったろうか、杯の数も重ねないうちに、もう、したたかな酔いを顔に発している者が多かった。
法皇も、数滴おすごしになり、龍顔をあざらかに、涼夜りょうや嵐気らんき と灯影の明滅になぶ らせ給うて、しきりに、左右の臣と、おんむつ みであった。
自然、一同も、興に乗じ、覇気はきたか ぶらせて、
「平家平家と、恐れるが、小松の内府 (重盛) は、近年、病いがちだし、入道相国は、福原のみに居て、とんと一門の内政さえ怠りがちという。・・・・そのほかでは、経盛、宗盛など、人物は、格段に落ちるし、公達輩きんだちばらとて、みな華奢きゃしゃ 風流ふうりゅう の真似びには賢げでも、これはと、優れてみゆる武将もおらん。── まず六波羅を焼き、西八条を陥し、北面の武者に、大和源氏の兵をあわせ、数日を待てば、諸州のお味方が、続々、院へさん ずるは明らかなこと」
と、四隣への気がねもなく、大言し合った。
成親も、それに、気勢を添えて言った。
「いま、初めて打ち明けるが、もし、院宣な発せられて、都の内に、六波羅攻めの火を見なば、真っ先に、御門へさん ぜんという有力な武門もある。── 老体の者ゆえ、そして、子弟や一族は、検非違使の要路や地方のかみ を勤めているので、わざとこの席には、召されておらぬが」
「え。それは、たれですか」
人びとは、眼や、きき耳をそろえて、成親を見た。
「いや、その者の望みと、固い約束によって、今は言えぬが、平家討滅の御旗が、仙洞にひるがえる日には分かる」
「洛内に住む武門ですか」
「されば、都の人」
「もちろん、源氏ですな」
「かの為義や義朝にも劣らぬ源氏の家すじである」
「はてのう?・・・・」 顔を見合わせながら、人びとはいよいよはばかりもなく、
「さては、近衛河原の頼政どのか。または、他の源氏か」
と、あれこれ、人名をあげて、酒の肴のように語り騒いだ。
すると、廊の角座すみざ にいた、静憲法印が、
「あな、あさまし。天下のおん大事を、など、酒興には口走り給う。恐ろしさを知らぬ人かな」
と、一同の 軽噪に眉をひそめた。
成親は、自分に言われたように受け取って、さっと面を変えながら、
「怖ろしとは、平家のことか。法印の一言こそ、聞き捨てならぬ」
と、折敷おしき高坏たかつき の間をまたぎ、つと、静憲のそばへ行こうとした。
その弾みに、狩衣かりぎぬ の袖がかかって、らっきょうなり の素焼の瓶子へいじ (酒とくり) が、ひっくり返った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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