〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (五) ──
御 産 の 巻

2013/07/06 (土) お ん さる がく (二)

ここに、大和源氏の一族で、多田蔵人ただのくろうど 行綱ゆきつな という者がある。
摂津の多田の庄に住んでいた。
院の執事、新大納言成親は、
「行綱は、人にも忘れられ、世にも わず、親は、摂津守であったにと、つねに不平をもっているそうです。いつかは、あの大和源氏を、御起用あるべきではございますまいか」
と、法皇へ、進言していた。
その後、行綱は、ひそかに召され、幾たびか、夜陰に院參したりして、院中の謀議にあずかっていた。他日、事を挙げる日には、摂津の野に、大和源氏を糾合きゅうごう して、真っ先にさん ずべし、という誓いのもとに、
「これは、当座の弓袋ゆぶくろしろ ぞ」
と、成親を経て、お手元の黄金や布、巻絹、皮革などの軍費も拝領していた。
けれど、もともと大した勢力があるわけでもなく、保元、平治にも戦陣には出ず、余命を保って来ただけの男なので、内々、心のうちでは、
「待てよ。平家討伐などという画策が、そうやすやすと、成就しようか」
多分な危惧きぐ をもっていた。
そうした彼の観測では、どう、ひいき目に考えても、今の平家が、たおれるとは思われない。
たとえ諸州へ、院宣をくだ されようと、叡山の山法師すら、軽んぜられる院宣では ── と、行綱はこのごろになっては、なお二の足を踏み、先に下賜された布、巻絹などは、家の子、郎党どもに分けて、直垂ひたたれ帷子かたびら ち縫わせ、
「家さえ富めば」
と、日和見主義を選んでしまった。
すると、成親から密書が来た。
(二十六日、鹿ヶ谷へ ──)
との寄合い状である。
行綱はもとより何食わぬ顔してこの会議に臨んだのであった。かかる異端な人物がすでに内部にいたとも知らず、平家を倒す密議を計っていた人びとには、この “二十六日” こそ、まことに宿命的な悪日であったというほかはない。
さて、その日、鹿ヶ谷の山荘に集まった者は、たれたれどといえば。
新大納言成親。
近江中将入道蓮浄。
丹波少将成経。
西光法師。
平判官へいほうがん 康頼やすより
故、少納言信西の子息静憲じょうけん 法印。
式部大輔しきぶのたいふ 正綱まさつな
新平判官資行。
山城守基兼。
宗判官そうのほうがん 信房のぶふさ  など。
それに、多田蔵人行綱。── また、山荘の主、法勝寺の僧都そうず 俊寛しゅんかん は、いうまでもまい。
いや、もうおひと方、重大な存在がある。
後白河法皇。
御座ぎょざ をめぐって、こう、一味同腹のともがらが、うちそろったのはまれである。
院中では、しょせん、至難なことだった。げにや法皇にも、これらの人びとを 「頼もしげな者どもよ」 と、みそなわされたことであろう。
所は、鹿ヶ谷、しとみ を閉てこめて、声をひそ め合う気わずらいもなく、青い峰風は、山荘の廊や間ごとを吹きぬけてゆく。
この日、こんな所で、平家顛覆てんぷく の秘謀がささやかれていようとは、洛内数万戸の屋根も、ゆめゆめ、気づくことはなかった。
終日ひねもす凝議ぎょうぎ のすえ、
「── 事を挙げるは、今ぞ」
「今をおいてはあるまい」
という意見が、中核をなした。それに伴う、院宣の主旨、軍兵の糾合、編制、作戦など、灯ともしごろまで、おのおのが意見を述べたり、検討したり、 み飽かぬ気色であった。
法皇のかかる思し召しは、根ぶかく、年久しいものである。が、かくも急速に決せられたのはなぜか。いうまでもなく、今ならば、軍勢をかり催しても、平家方では 「院の山門攻めよ」 として怪しみもせず、見過ごすに違いない。── という時局と世情と、また敵方の油断とを巧みに織り入れた御機略なのであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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