〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (五) ──
御 産 の 巻

2013/07/05 (金) お ん さる がく (一)

都のはず鹿ししたに は、東山の一峰、如意嶽の山ふところで、加茂川へそそぐ白河のみなかみ、桜ノ門滝も、そこの谷あいである。法勝寺ほっしょうじ執行しゆぎょう俊寛しゅんかん 僧都そうず は、鹿ヶ谷に山荘 (別宅) をもっていた。
裏山を越えれば、近江の三井寺道へつづき、西北は洛中洛外をひと目に俯瞰ふかん できる。そして、あたりは幽翠ゆうすい だし風致も申し分ないが、おそらく、不便はひと通りではあるまい。
もともとここは、俊寛の祖父、源大納言げんだいなごん 雅俊まさとし が、隠居所に建てたのを、次に、僧都の父、木寺法印もくじのほういん 寛雅かんが が、歌よみなので、よく歌の会などには、使っていたものだった。
── けれど、俊寛は、まだ四十がらみの屈強だし ── それに父のような風流気もない。
常の住居は、岡崎の仁王小路にある。
仁王門の内の大毘盧遮那寺だいびるしゃなじ を、法勝寺ともいい、彼はそこの寺務執行を勤めていた。
地方には寺田じでん 八十ヵ所もあり、封戸ふご の雑務やら人事、財政など、忙しい体であったらしいが、所従しょじゅう眷族けんぞく 四、五百人の上に立っていたというから、もってその生活ぶりも、へたな公卿や武門以上なものであったことが分かろう。
仁王小路の家には、よき妻も居、息女むすめく もある。
(何が、御不足で)
と、人は思うであろうが、その俊寛にも、なおこの上にもの野望があった。
つねに親しい丹波少将成経や西光法師などの手びきもあり、また、院と寺との関係もあって、いつか後白河法皇に近づきまいらせ、法皇からも、なみなみならぬ眷顧けんこ を給わっていた。
もう数年来のことである。
とかくして、院中の “反平家くつ ” の中で、彼も、人いちばい激語を吐く有力な一人になっていた。
そればかりでない。
鹿ヶ谷の山荘を、一味の人びとの密議場所にあて、風雅の会にことよせては、たびたびこのに寄り合った。
ここは都に近くて、都に遠い。
人目しげき院中と違い、どんな人物を加えても、また、密語のもれるおそ れはないので、つねには、後白河法皇も、幾たびとなく、お忍びで渡られた。
中宮滋子しげこ御願ぎょがん で建てた最勝光院は近いので、そこに供人ともびと をとどめ給い、あとは箱輿はこごし に召されて、山路をお通いになった。熱情の余りとはいえ、ずいぶん大胆な御行動ではあった。
たとえば。── つい数日前の二十六日。
院の諸門をとじ、東門には北面の守りを立たせて、表向き、
仙洞せんとう 、御風気・・・・)
とな え、かの武蔵坊の自訴も、また、池大納言の院參も、すべての出入りに対して、同様な寂莫じゃくまく を示していた日も ── なんぞはからん ── 法皇には、鹿ヶ谷へ微行しておられたのであった。
この数日の世間では、よりよりに、
「院の山門攻めは、必定であろう」
明雲みょううん 座主の身や、山門の反逆行為を、よも、不問にはおかれまい」
「御軍勢のp催しは、いつか」
などと、しきりな臆説おくせつ もあり、法皇御不予などのうわさも交じって、院と山門との衝突の成り行きを、どうなることかと、みな案じていた。── そうした微妙このうえもない今は時局下なのである。
しかし、法皇の御法寸としては、機微このうえもない 「時」 なればこそ、あえて事を進め、秘密会合にまで臨まれたものであろう。
政略に自負のお強い法皇は、兵略にも、ふかいお考えと自信をもっている。人心の機微を縫い、人心が他へ れているうちに、積年の宿志をお遂げになろうとしたものに違いない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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