都の端
れ鹿しし ヶ谷たに
は、東山の一峰、如意嶽の山ふところで、加茂川へそそぐ白河のみなかみ、桜ノ門滝も、そこの谷あいである。法勝寺ほっしょうじ
の執行しゆぎょう 、俊寛しゅんかん
僧都そうず は、鹿ヶ谷に山荘
(別宅) をもっていた。 裏山を越えれば、近江の三井寺道へつづき、西北は洛中洛外をひと目に俯瞰ふかん
できる。そして、あたりは幽翠ゆうすい
だし風致も申し分ないが、おそらく、不便はひと通りではあるまい。 もともとここは、俊寛の祖父、源大納言げんだいなごん
雅俊まさとし が、隠居所に建てたのを、次に、僧都の父、木寺法印もくじのほういん
寛雅かんが が、歌よみなので、よく歌の会などには、使っていたものだった。 ──
けれど、俊寛は、まだ四十がらみの屈強だし ── それに父のような風流気もない。 常の住居は、岡崎の仁王小路にある。 仁王門の内の大毘盧遮那寺だいびるしゃなじ
を、法勝寺ともいい、彼はそこの寺務執行を勤めていた。 地方には寺田じでん
八十ヵ所もあり、封戸ふご の雑務やら人事、財政など、忙しい体であったらしいが、所従しょじゅう
の眷族けんぞく 四、五百人の上に立っていたというから、もってその生活ぶりも、へたな公卿や武門以上なものであったことが分かろう。 仁王小路の家には、よき妻も居、息女むすめく
もある。 (何が、御不足で) と、人は思うであろうが、その俊寛にも、なおこの上にもの野望があった。 つねに親しい丹波少将成経や西光法師などの手びきもあり、また、院と寺との関係もあって、いつか後白河法皇に近づきまいらせ、法皇からも、なみなみならぬ眷顧けんこ
を給わっていた。 もう数年来のことである。 とかくして、院中の “反平家窟くつ
” の中で、彼も、人いちばい激語を吐く有力な一人になっていた。 そればかりでない。 鹿ヶ谷の山荘を、一味の人びとの密議場所にあて、風雅の会にことよせては、たびたびこのに寄り合った。 ここは都に近くて、都に遠い。 人目しげき院中と違い、どんな人物を加えても、また、密語のもれる惧おそ
れはないので、つねには、後白河法皇も、幾たびとなく、お忍びで渡られた。 中宮滋子しげこ
の御願ぎょがん で建てた最勝光院は近いので、そこに供人ともびと
をとどめ給い、あとは箱輿はこごし
に召されて、山路をお通いになった。熱情の余りとはいえ、ずいぶん大胆な御行動ではあった。 たとえば。── つい数日前の二十六日。 院の諸門をとじ、東門には北面の守りを立たせて、表向き、 (仙洞せんとう
、御風気・・・・) と称とな
え、かの武蔵坊の自訴も、また、池大納言の院參も、すべての出入りに対して、同様な寂莫じゃくまく
を示していた日も ── なんぞはからん ── 法皇には、鹿ヶ谷へ微行しておられたのであった。 この数日の世間では、よりよりに、 「院の山門攻めは、必定であろう」 「明雲みょううん
座主の身や、山門の反逆行為を、よも、不問にはおかれまい」 「御軍勢のp催しは、いつか」 などと、しきりな臆説おくせつ
もあり、法皇御不予などのうわさも交じって、院と山門との衝突の成り行きを、どうなることかと、みな案じていた。── そうした微妙このうえもない今は時局下なのである。 しかし、法皇の御法寸としては、機微このうえもない
「時」 なればこそ、あえて事を進め、秘密会合にまで臨まれたものであろう。 政略に自負のお強い法皇は、兵略にも、ふかいお考えと自信をもっている。人心の機微を縫い、人心が他へ外そ
れているうちに、積年の宿志をお遂げになろうとしたものに違いない。 |